かかりもせぬ前から先刻の樣な騷ぎに出會つて、靜かな心も落ちついた氣分もあつたものではなかつたのである。半分は泣く樣な氣持でわけもなく歩いてゐると、後から馬車が來た。そして馬車屋が身近くやつて來て乘れと勸める。何處行きだと訊くと奈智の瀧のツイ下まで行くといふ。直ぐ幌を上げて乘り込むと驚いた。先刻の宿屋に休んでゐた三人連の一行が其處に乘り込んでゐたのだ。
 向うでは前から私だと知つてゐたらしく、お互ひにそれらしい顏を見合せて默り込んだ。平常《いつも》ならば私も挨拶の一つ位ゐはする所であるが、彼等の好奇に動く顏を見るとまた不愉快がこみ上げて來て目禮一つせず、默つたまま、隅の方に腰を下した。四方とも黒い油紙で包み上げた馬車の中は不氣味な位ゐ暗かつた。そして泥田の樣な道を辿つてゐるので、その動搖は想像のほかであつた。四五丁も行つたと思ふころ、馬車屋が前面の御者臺の小さなガラス窓から振返つて私あてに聲をかけた。この降るなかをお詣りかと訊くのだ。奈智と云へば私は唯だ瀧としか聯想しなかつたが、其處には熊野|夫須美《ふすみ》神社といふ官幣か國幣の大きな神社があり、西國三十三ヶ所第一の札所である青岸渡寺とい古刹もあるのである。併し、御者のわざ/\斯う訊いたのは決して言葉通りの意味でないことを私は直ぐ感じた。此奴、驛前の宿屋で聞いて來たナ、と思ひながら慳貪《けんどん》に、
「イヤ、瀧だ。」
 と答へた。
「瀧ですか、瀧は斯んな日は危う御座んすよ。」
 と言ふ。にや/\してゐる顏がその背後《うしろ》から見える樣だ。
 暫く沈默が續くと、今度は私と向ひ合ひに乘つてゐる福々しい老人が話しかけた。このお山は初めてか、といふ樣なことから、今日は何處から來たか、お山から何處へ行くかといふ樣な事だ。言葉短かにそれに返事をしてゐると、他の二人も談話の中に加はつて來た。これは老人とは違つた、見るからに下卑た中年の夫婦者である。私はよく/\の事でなければ返事をせず、一切默り込むことにしてゐた。すると次第に彼等同志だけで話が逸《はず》んで來て、後には御者もその仲間に入つた。多くは瀧が主題で、この近來どうも瀧に飛ぶ者が多くて、そのため村では大迷惑をしてゐる、瀧壺の深さが十三尋もあつて、しかもその中は洞になつてゐると見え、一度飛んだ者は決して死骸が浮んで來ない、所詮駄目だと解つてはゐるものの村ではどうしても其儘《
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