第4水準2−12−11]りがわるくては傳造も息子をば如何することも出來ないだらう、とこれも口の邊《ほとり》で聲を出さずに笑つた。自分は心の中で、初太郎が熊本で高等學校の入學試驗を受けに行つてゐて勉強過度の結果急に血を咯《は》いて、其父の傳造が迎ひに行つてからもう一ヶ月半にもなるといふ話を思ひ起してゐた。なほ聞けば、この一年程以前からあの傳造の賽《さい》の目の出が急にわるくなつて、瞬く間に財産の大半をば減《す》つてしまつたとかいふことで、どうせ泡のやうに出來たものだから泡のやうに無くなつて行くのも無理は無からうと、母は父を見遣つて微笑した。その横顏を見てゐて自分は少なからず淺間しく且つ面憎く思はざるを得なかつた。我等自身の家でもその年は血の出るやうな三度目の山賣りを斷行して、辛くも焦眉の急の借財を返した當座では無かつたか。先祖代々が命より大事にして固守し來つた山林田畑を自分等の代になつて賣拂つて、そして「舊家」を誇るといふは少々面の皮が厚過ぎはしないだらうか。斯く思ふと自分はその座の酒さへ耐へがたく不味《まづ》かつた。
その夏は暮れ、翌年の夏、自分はまた歸村した。初太郎の肺病はやゝ輕くなつてゐて、その頃は折々溪河へ魚釣などにも出て來ることがあつた。或日のこと、自分は我家のすぐ下の瀧のやうになつて居る長い瀬のほとりの榎の蔭で何か讀書してゐた。日は眞晝、眼前の瀬は日光を受けて銀色に光り、峽間《はざま》の風は極めて清々《すが/″\》しく吹き渡り、細《こま》かな榎の枝葉は斷えず青やかな響を立てゝそよめいてゐた。雲も無い空は峯から峯の輪郭を極めて明瞭に印して、誠に強烈な「夏の靜けさ」に滿ちた日であつた。何を讀んでゐたのであらう、定かには覺えて居らぬ。とにかくしんみり[#「しんみり」に傍点]と身も心をも打ち込んで、靜かな感興を放肆《ほしいまま》にしてゐたに相違ない。所が不圖《ふと》何ごころなく眼を書物から外すと、すぐ自分の居る對岸に一個の男が佇んで釣竿を動かして居る。注意するまでもなく自分は直ちに彼の初太郎であることを知つた。
なるほど痩せた。特に濡れた白襦袢一枚のぴつたり[#「ぴつたり」に傍点]と身に密着《くつつ》いて、殆んど骨ばかりの人間が岩上に佇んで居るとしか見えない。多く室内にゐて珍しく出かけて來たのであらう、日に炒《い》りつけられた麥藁帽子の蔭の彼の顏は痛々しく蒼白
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