片二片のありとも見えぬ薄雲のなかに美しう宿つて居る。この女はいま心の中で父親の死んだといふことよりも、夢の合つたのを珍しがつて居るのかも知れない。
 階下《した》ではまだ子供が騷いで居る。そして姉の方が妹から追はれたと見えて、きやつ/\言ひ乍ら母を呼んで階子段《はしごだん》を逃げ登つて來ようとする。
「來るでない!」
 と言ひ乍ら細君は立つて、子供と共に下に降りて行つた。
 あとで兩人《ふたり》はやや暫く無言に眼を見合せてゐた。自分は微笑んで、友はさも情無《なさけな》いといふ風で。
「如何だ、實にどうも!」と友。
「ウフ! 流石に驚いたね!」と自分。
 友はいま細君の降りて行つた階子段の方を見送つてゐたが、
「あれでも矢張り生きて居る……」
 と、獨言《ひとりご》つやうに言つた。
 自分もその薄暗い階子段を眺めてゐて、何となく眼のさきの暗くなるやうな氣持になつて來た。
 と、友は
「どうしても普通《なみ》の人間では無い。不具《かたわ》では……白痴《ばか》では無論ないけれども確に普通《なみ》ではない。あれで人間としての價値があるだらうか。」
「價値?」
「價値といふと可笑しいが、意味さ、人間として生存する價値が、意味があるだらうか。」
「サア……然し」
 と言ひかくると、自身にも解らぬ一種言ひがたい冷たい悲哀の念が霧のやうに胸の底からこみ上がつて來た。
「然し、然し、あれでも子を産んだからな、しかも二個《ふたつ》!」
 と、口早やに言ひ棄てて埓《らち》もなくウハヽヽヽヽと笑ひ倒れた。
 倒れると窓越しの大空が廣々と眺めらるる。今は早や凝つた形の雲とては見わけもつかず、一樣に露けく潤《うる》んだ皐月《さつき》の空の朧ろの果てが、言ふやうもなく可懷《なつか》しい。次いでやや暫くの間、死んだやうな沈默がこの室内に續いてゐた。
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附記、この「一家」の一篇は次號を以て完了すべし。然しただ本號のこの一章のみを以て獨立せるものと見做さるるも強ちに差支へなし。(作者)
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底本:「若山牧水全集 第九卷」雄鷄社
   1958(昭和33)年12月30日発行
初出:「東亞の光」
   1907(明治40)年12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2004年1月20日作成
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