今に見給へ、また例の泥臭い生温《なまぬる》の湯を持つて來るぜ。今|大周章《おほうろたへ》で井戸に驅け出して行つたから。」
「水も汲んでないのか、どうもまつたく驚くね。丁度今は夕方ぢやないか。」
「よくあれで世帶が持つて行ける。」
「行けもしないぢやないか。如何《どう》だい、昨夜《ゆうべ》は。」
 と言つてたまらぬやうに、ウハヽヽヽと吹き出した。續いて自分も腹を抱へて笑つた。
 昨夜《ゆふべ》の矢張り今の頃、酒屋の番頭が小僧をつれて、先々月からの御勘定を今日こそはといふので今まで幾十度となく主人の口車に乘せられて取り得なかつた金を催促に押しかけて來た。丁度主人は不在《るす》だつたので彼等は細君を對手に手酷く談判に及んだ折も折、今度はまた米屋の手代が、これも同じく、もう如何しても待つてはあげられませぬと酒屋が催促して居る眞最中《まつさいちゆう》に澁り切つてやつて來た。狹苦しい門口《かどぐち》は以上の借金取りで、充滿《いつぱい》になつて居るといふ騷ぎ。あれやこれやといろ/\押問答がやや久しく續けられてゐたが、終《つひ》には喧嘩かとも思はるるばかりの烈しい大聲を張り上げるやうになつて來た。殊にいつもこの事に馴れきつて居る酒屋の番頭の金切聲といふものは殆んど近邊《きんぺん》三四軒の家までも聞え渡らうかと思はれる位ゐで、現に三四人の子供は面白相に眼を見張り囁《ささや》き交して門前に群がつて居る。こんな有樣で二階に居る身も氣が氣でない。宛《さなが》ら自分等があの亂暴な野卑な催促を受けて居るかのやうで二人とも息を殺して身を小さくして縮《すく》んでゐたのである。
 折よく其處へ主人が歸つて來て、どういふ具合に斷つたものか定めし例の巧みな口前を振《ふる》つたのであらう、先づ明晩まで待つて呉れといふ哀願を捧げて、辛くも三人を追ひ歸した。
 其|後《あと》ではまた細君を捉へて罵る主人の怒つた聲が忍びやかに聞えてゐた。
 斯んなことは決して今に始まつた事でないので、僕等が此家《ここ》に移つて以來、殆んど數ふるに耐へぬ程起つて居るのである。
「然し……………」
 と友は笑ふのをやめて、眞面目になつて、
「然し、細君はあれが全然《まるつきり》氣にならぬと見えるね。」
「まさか、何ぼ何だつて幾分かは……」
「いや、全然《まるつきり》だぜ。あんなに酷い嘲罵を浴びせられても、それは實にすましたもんだよ
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