父も釣が好きで、よく一緒に出かけて行つた。たゞ、父の釣はあゆつり[#「あゆつり」に傍点](郷里ではあゆかけ[#「あゆかけ」に傍点]といつてゐた)だけであつたが好きな割には下手で、却つて子供のわたしの方がいつも多く釣つてゐた。この父は愉快なる人で、性質は善良無比、そして酒ばかりを嗜《たしな》んだ。
 また夏休みの話だが、夏休みに歸つてわたしはいつも二階に寢てゐた。そして朝寢をしてゐると、父はそうつ[#「そうつ」に傍点]と幾度も階下から覗きに來た。そしていよ/\となると、
『繁、起けんか。今朝、いゝぶえん[#「ぶえん」に傍点]が來たど』
 といつた。ぶえん[#「ぶえん」に傍点]とは多分無鹽とでも書くのであらう、氷も自動車もなかつた當時にあつては、普通の肴屋の持つて來る魚といへば鹽物か干物に限られてゐた。中に一人か二人の勇ましいのがあつて涼しい夜間を選んで細島あたりからほんたうの生魚を擔いで走つて來る。彼らはもう仕入れをする時からどこには何をどれだけ置いとくときめてやつて來るのだ。だから走りつく早々臺所口にかねてきめておいた分を投げ込んで置いてまた次へ走る。亂暴な話で、こちらではもう買ふも買はないもないのである。
 父は飮酒家の癖で、朝が早かつた。誰よりも先に起きて圍爐裡に火など焚きつけてゐた。そこへその無鹽賣りが來る。彼はそれを待ち受けてゐて、やがて自身で料理にかゝる。刺身庖丁の使ひぶりは彼の自慢の一つであつた。そして綺麗に料理しあげて、膳をこしらへて、臺所の山に面した縁端へそれを持ち出し、サテ、わたしの起きて來るのを待つのである。澁々私が起きてゆく、父はちやんと用意してあつた膳の上から一つの盃をとつて、
『マ、一ぱいどま、よかろ』
 といつてさす。年齒僅に十幾歳の忰を相手に彼はいかにも滿足げに朝の一時間だか二時間だかを過したのである。
 その父逝いて十五年、忰もいつか父に劣らぬノミスケ[#「ノミスケ」に傍点]となり、朝晩、ふら/\しながらかうしてたま/\遙に故郷のことなど思ひだすとおのづから眼瞼の熱くなるのを覺ゆるのである。



底本:「若山牧水全集第八巻」雄鶏社
   1958(昭和33)年9月30日初版1刷
入力:柴武志
校正:小林繁雄
2001年2月8日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.a
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
若山 牧水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング