てゐるのは例の黒木の山である。その黒い森の中にところ/″\雪白な樹木の立ち混つてゐるのは白樺の木であるさうだ。風は次第に強く、やがてその黒木の山に薄らかに雲が出て來た。そして驚くほどの速さで山腹を走つてゆく。あとから/\と濃く薄く現はれて來た。空にも生れて太陽を包んでしまつた。
細かな水皺《みじわ》の立ち渡つた沼の面はたゞ冷やかに輝いて、水の深さ淺さを見ることも出來ぬ。漸く心のせきたつたころ、ぐつと絲が引かれた。驚いて上げてみると一尺ばかりの色どり美しい魚がかゝつて來た。私にとつては生れて初めて見る魚であつたのだ。慌てゝ餌を代へておろすと、またかゝつた。三疋四疋と釣れて來た。
「旦那は上手だ。」
案内人が側で呟いた。どうしたのか同じところに同じ餌を入れながら彼のには更に魚が寄らぬのであつた。一疋二疋とまた私のには釣れて來た。
「ひとつ俺は場所を變へて見よう。」
彼は舟から降りて岸つたひに他へ釣つて行つた。
何しろ寒い。魚のあぎとから離さうとしては鈎を自分の指にさし、餌をさゝうとしてはまた刺した。すつかり指さきが凍えてしまつたのである。あぎとの血と自分の血とで掌が赤くなつた。
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