夜沼田に着いた事、一緒にゐるのが沼田在の同志U―君である事、これから法師温泉まで行かうとしてゐる事、一寸でも逢つてゆきたくて立ち寄つた事などを説明した。
「どうぞ、私の家へお出で下さい。」
 と漸く色々の意味が飮み込めたらしく彼は安心した風に我等を誘つた。なるほど、ツイ手近に來てゐながら見出せないのも道理なほどの山の蔭に彼の家はあつた。一軒家か、乃至は、其處らに一二軒の隣家を持つか、兎に角に深い杉の木立が四邊《あたり》を圍み、濕つた庭には杉の落葉が一面に散り敷いてゐた。大きな圍爐裡端には彼の老母が坐つてゐた。
 お茶や松茸の味噌漬が出た。私は圍爐裡に近く腰をかけながら、
「君は何處で歌を作るのです、此處ですか。」
 と、赤々と火の燃えさかる爐端を指した。土間にも、座敷にも、農具が散らかつてゐるのみで書籍も机らしいものも其處らに見えなかつた。
「さア……。」
 羞しさうに彼は口籠つたが、
「何處といふ事もありません、山でゝも野良でゝも作ります。」
 と、僅かに答へた。私が彼の歌を見始めてから五六年はたつであらう。幼い文字、幼い詠みかた、それらがM―といふ名前と共にすぐ私の頭に思ひ浮べらる
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