K―君が早や四五間も澤渡道の方へ歩いてゐるのを見ると、其の儘に同君のあとを追うた。そして小一町も二人して默りながら進んだ。が、終《つひ》には私は彼を呼びとめた。
「K―君、どうだ、これから一つあつちの路を行つて見ようぢやアないか。そして今夜その花敷温泉といふのへ泊つて見よう。」
 不思議な顏をして立ち留つた彼に、私は立ちながらいま頭に影の如くに來て浮んだといふ花敷温泉に就いての思ひ出を語つた。三四年も前である。今度とは反對に吾妻《あがつま》川の下流の方から登つて草津温泉に泊り、案内者を雇うて白根山の噴火口の近くを廻り、澁峠を越えて信州の澁温泉へ出た事がある。五月であつたが白根も澁も雪が深くて、澁峠にかゝると前後三里がほどはずつと深さ數尺の雪を踏んで歩いたのであつた。その雪の上に立ちながら年老いた案内者が、やはり白根の裾つゞきの廣大な麓の一部を指して、彼處にも一つ温泉がある、高い崖の眞下の岩のくぼみに湧き、草津と違つて湯が澄み透つて居る故に、その崖に咲く躑躅や其の他の花がみな湯の上に影を落す、まるで底に花を敷いてゐる樣だから花敷温泉といふのだ、と言つて教へて呉れた事があつた。下になるだけ
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