ことを昨夜更けてから宿の主人に頼んだのであつたが、今朝未明に起きて湯に行くと既にその案内人が其處に浸つてゐた。顏の蒼い、眼の瞼しい四十男であつた。
 昨夜の時雨が其の儘に氷つたかと思はるゝばかりに、路には霜が深かつた。峰の上の空は耳の痛むまでに冷やかに澄んでゐた。溪に沿うて危い丸木橋を幾度か渡りながら、やがて九十九折《つゞらをり》の嶮しい坂にかゝつた。それと共に四邊はひし/\と立ち込んだ深い森となつた。
 登るにつれてその森の深さがいよ/\明かになつた。自分等のいま登りつゝある山を中心にして、それを圍む四周の山が悉くぎつしりと立ち込んだ密林となつてゐるのである。案内人は語つた。この山々の見ゆる限りはすべてC―家の所有である。平地に均らして五里四方の上に出てゐる。そしてC―家は昨年この山の木を或る製紙會社に賣り渡した。代價四十四萬圓、伐採期間四十五箇年間、一年に一萬圓づつ伐り出す割に當り、現にこの邊に入り込んで伐り出しに從事してゐる人夫が百二三十人に及んでゐる事などを。
 なるほど、路ばたの木立の蔭にその人夫たちの住む小屋が長屋の樣にして建てられてあるのを見た。板葺の低い屋根で、その軒下には女房が大根を刻み、子供が遊んでゐた。そしてをり/\溪向うの山腹に大風の通る樣な音を立てゝ大きな樹木の倒るゝのが見えた。それと共に人夫たちの擧げる叫び聲も聞えた。或る人夫小屋の側を通らうとして不圖立ち停つた案内人が、
「ハハア、これだナ。」
と呟くので立ち寄つて見ると其處には三尺角ほどの大きな厚板が四五枚立てかけてあつた。
「これは旦那、楓《かへで》の木ですよ、この山でも斯んな楓は珍しいつて評判になつてるんですがネ、……なるほど、いゝ木理《もくめ》だ。」
 撫でつ叩きつして暫く彼は其處に立つてゐた。
「山が深いから珍しい木も澤山あるだらうネ。」
 私もこれが楓の木だと聞いて驚いた。
「もう一つ何處とかから途方もねえ黒檜《くろび》が出たつて云ひますがネ、みんな人夫頭の飮代になるんですよ、會社の人たちア知りやしませんや。」
 と嘲笑ふ樣に言ひ捨てた。
 坂を登り切ると、聳えた峰と峰との間の廣やかな澤に入つた。澤の平地には見る限り落葉樹が立つてゐた。これは楢でこれが山毛欅《ぶな》だと平常から見知つてゐる筈の樹木を指されても到底信ずることの出來ぬほど、形の變つた巨大な老木ばかりであつた。そし
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