の中にいて、窓からその手紙を庭へ抛げおとし、そしてホテル内の一室からすぐに帳場へ電話をかけたものだろうと思っていたのだ。しかし帳場では案に相違して、その電話はホテル外から懸ってきたんだという。折角の帆村の考えも、そこで全く崩れてしまうよりほかなかった。帆村はそこで一旦電話を切った。
 糸子は、まだ何も知らずスヤスヤと睡っている。帆村はソッと近づいて、彼女の軟かな手首を握ってみた。
「ウム、静かな脈だ。心臓には異常がない。だがどう見ても、何か睡眠剤のようなものを嚥《の》まされているらしい」
 なにゆえの睡眠剤だろう。
 もちろんそれは、糸子をここへ搬びこむためにそうするのが便利だったというわけだろう。すると糸子たちが、このホテルに入ってくるのを誰か見た者がありそうなものだ。それを帳場へ行って聞き正したいと思った。
 彼はすぐにも帳場の方へ下りてゆきたかったけれど、それは甚だ気懸りであった。この部屋には、糸子がひとりで睡っているのである。もし彼が室外に出て鍵をかけていったとしても、さっき煙のようにこの部屋に闖入した蠅男の一味は、えたりかしこしと帆村の留守中に再びこの部屋に押し入り、糸子に危害を加えるかもしれないのだ。これは迂濶《うかつ》に部屋を出られないぞと思った。
 そうした心遣いが帆村の緻密な注意力を証拠だてるものであった。けれどその一面に彼がいつもの場合とはちがい、なぜかしら気の弱いところが見えるのも不思議なことであった。帆村は電話器をとりあげて、外線につないで貰った。そして彼は宝塚警察分署を呼びだした。彼はそこで事情を話し、すぐ二名の警官を特派してくれるように頼んで、電話を切った。警官は間もなくホテルにとびこんで来た。
「やあ帆村はん、なにごとが起りました」
 と、向うから声をかけられたのを見ると、それはかねて見覚えのある住吉署の大男、大川巡査部長と、外《ほか》一名であった。帆村も奇遇に愕いて尋ねると、大川巡査部長は昨日辞令が出て、この宝塚分署の司法主任に栄転したということが分った。時も時、折も所、蠅男の跳梁《ちょうりょう》の真只中に誰を見ても疑いたくなるとき、最も信用してよい旧知の警官を迎えたことは、帆村にとってどんなに力強いことであったか分らなかった。
 警官二人を部屋の中に入って貰って、糸子の保護を頼んだ上で、帆村は帳場へトコトコと下りていった。
 帳場では大川主任の訪問をうけてから、すっかり恐縮しきっていた。そして帆村にありとあらゆる好意を示そうとするのだった。
 帆村はさっきから考えていたところに従って、帳場に質問を発した。まず誰かホテルの者でこうこうした若い婦人を見かけたものはないかと訊いてみた。
 帳場では、私どもは決して見かけなかったと返事をした。それからすぐ雇人たちを集めて、同じことを問いあわせて呉れた。しかし誰一人として、糸子に該当《がいとう》する婦人を見たものはないということだった。
「フーム、どうも可笑《おか》しいことだ」
 帆村は強く首をふった。
 誰にも見られないでこのホテルに忍びこむということができるだろうか。裏口や非常梯子のことを聞いてみたが、そこからも誰にも見とがめられないで入ることは出来ないことが分った。すると糸子は、煙のように入って来たことになる。そんな莫迦莫迦《ばかばか》しいことがあってたまるものではない。
 そこで帆村は窮余《きゅうよ》の策として、宿帳を見せて貰った。目下の逗留客《とうりゅうきゃく》は、全部で十組であった。男が十三人に、女が六人だった。
 次に彼は逗留客がホテルに入った時間を調べていった。
 その中に彼は一人の男の客に注意力を移したのだった。
「井上一夫。三十三歳」
 と、たどたどしい筆蹟で書いてある一人の男があった。住所は南洋パラオ島常盤街十一番地と別な筆蹟で書いてある。帆村が怪しんだのは、彼の井上氏が南洋から来たということではなかった。それはこの井上氏が本日の午後三時半に到着したというその時刻にあったのである。午後にホテルに入ったのはこの井上氏だけであった。
 午後三時半といえば、彼が蠅男に三輪車を奪われてのちトボトボと有馬の町の駐在所へ転げこんだその時刻なのであった。もし蠅男があの場合、大胆にもすぐに宝塚へ引きかえしたとしたら、午後三時半にはゆっくりこのホテルに入れる筈である。なにしろ午後にホテルについた唯一の人物であるから、よく調べなければ承知できない。
「これはどんな風体《ふうてい》の客人ですか」
 と、帆村は帳場にたずねた。
「そうですなア、とにかく顔の青い大きな色眼鏡をかけた人だす。風邪ひいとる云うてだしたが、引きずるようなブカブカの長いオーバーを着て、襟《えり》を立ててブルブル慄《ふる》えていました。そして黒革の手袋をはめたまま、井上一夫、三十三歳と左手で書っきょりました」
 帆村は呻《うな》った。色眼鏡に長い外套、そして襟を立ててブルブル慄えている顔色の青い男だというのである。それはたしかに怪しい人物だ。
「なにか荷物を持っていなかった?」
「さよう、持っていましたな。大きなトランクだす。洋行する人が持って歩くあの重いやつでしたな。自動車から下ろすときも、ボーイたちを叱りつけて、ソッと三階へ持ってあがりましたがな」
「ほう、大きなトランク?」
 帆村はハッと息をのんだ。
「そいつだ。そいつに違いない。その井上氏の部屋に案内して呉れたまえ」


   蠅男の奇略《きりゃく》


「えッ、――」
 と、帳場氏は、帆村の勢いに驚いて身をすさった。
「なにがそいつ[#「そいつ」に傍点]だんネ」
「そいつが恐るべき蠅男なんだ。僕にはすっかり分ってしまった。早くそいつ[#「そいつ」に傍点]の部屋へ案内したまえ」
「へえ、あの蠅、蠅男! あの殺人魔の蠅男だっか。ああそういわれると、どうも奇体な風体《ふうてい》をしとったな。気がつかんでもなかったんやけれど、まさかそれが蠅男だとは……」
「愕くのは後でもいい。さあ早くその井上一夫の部屋へ――」
 帆村はジリジリして帳場氏の腕をつかんだ。
 帳場氏はそれに気がついて、
「ああ、その人やったら、今はお留守だっせ」
「ナニ留守だッ。どうしたんだ、その男は」
「いえーな。ちょっと宝塚の新温泉へ行ってくるいうて出やはりました」
「それは何時だ」
「来て間もなくだっせ。ちょうどあの西洋封筒を拾ったすぐ後やったから、あれで午後の四時十分か十五分ごろだしたやろな」
「うーむ、そいつだ。いよいよ蠅男に極《きま》った。分ったぞ分ったぞ」
「あンさんにはよう分ってだすやろが、こっちには一向腑に落ちまへんが」
「いや、よく分っているのだ。僕の云うことに間違いはない。さあ早く、その井上氏の部屋へゆこう、部屋の鍵を持ちたまえ」
 帆村は厳然たる自信をもって、帳場氏に命令するようにいった。そして彼は真先にたって、エレヴェーターのなかに躍りこんだ。帳場氏も、いまは帆村の言葉にしたがってついてゆくより外に仕方がなかった。
 エレヴェーターを四階で停めて、帆村は大川主任のところへ行った。そして、一部始終を手短かに話し、主任の応援と命令とを乞うた。
「ええッ。蠅男がこのホテルに入りこんどる。それはほんまかいな。ほんまなら、こらえらいこっちゃ」
 部長の顔色もサッと青褪め、すこぶる緊張した。
 糸子の部屋には一人の警官を置いて、あとの三人は、急いで三階に駈け下りた。そして目ざす井上一夫の部屋第三三六室に近づいていった。
 いざとなれば、たとい留守にしても、蠅男のいた部屋を開けるというのは、たいへん覚悟の要ることだった。三人はめいめいに腋《わき》の下から脂汗を流して、錠前の外れた扉に向って身がまえた。帆村はソッと扉を押した。
 そして素早く手を中に入れて、電灯のスイッチ釦《ボタン》を押した。パッと室内灯がついた。
 三人は先を争って、部屋の中を見た。
「ウム、あるぞ、トランクが……」
 部屋のなかには、誰の姿も見えず、ただ大きなトランクだけがポツンと置き放されてあった。
「さあ、このトランクを開けてみましょう」
 帆村は主任の許しをえて、持ってきた彼の秘蔵にかかる錠前外しでもって、鍵なしでドンドン錠を外していった。
 錠前はすべて外《はず》れた。ものの二分と懸らぬうちに――
 大川主任は唖然《あぜん》として、帆村の手つきに見惚《みと》れていた。
「さあ、トランクを開きますよ」
 帆村はトランクの蓋に手をかけるなり、無造作にパッと開いた。「あッ、空っぽや」
「ウム、僕の思ったとおりだッ」大トランクの中は、果然《かぜん》空っぽであった。帆村は、そのトランクの中に頭をさし入れて、底板を綿密にとりしらべてみた。
「ああこんなものがある」
 帆村はトランクのなかから、何物かを指先に摘みだした。
 それは細いヘヤピンであった。彼はそれをソッと鼻の先へもっていった。
「ああピザンチノだ。南欧の菫草《すみれそう》からとれるという有名な高級香水の匂いだ、全く僕の思った通りだ。糸子さんはこの香水をつけている。するとこのトランクに糸子さんが入っていたと推定してもいいだろう。糸子さんはこのトランクのなかに入れられてこのホテルに搬びこまれたのだ」
「えッ、あの糸子はんが――へえ、そら愕いたなア」
 大川主任と帳場氏は、互いの顔を見合わせて愕いたのであった。そこで帆村は、二人に対し、蠅男の演じた奇略《トリック》をひととおり説明した。前後の様子から考えると、蠅男は三輪車を奪ってから、大胆にもこの宝塚にひきかえしたのだった。そして彼は多分池谷別邸のなかに幽閉されていたろうと思われる糸子に麻酔剤を嗅がせた上、このトランクに入れ、それを自動車に積んで、彼は泊り客のような顔をしてこのホテルに入りこんだのだった。そして隙をみて、このトランクのなかから糸子を出し、合鍵で帆村の部屋を明けて、そのベッドの上に糸子を寝かせたというわけだった。その上かの蠅男は、脅迫状を作って、窓から庭に投げだし、直ちに帳場氏を電話口に呼び出して、それを拾わせたと説明した。そのとき帳場氏は、怪訝《けげん》な顔をしていった。
「そら妙やなア。あの電話が蠅男やったとすると、蠅男はホテルの外にいたことになりまっせ。なんでやいうたら、あの電話はホテルのなかから懸けたんやあれしまへんさかい。電話を懸けた蠅男と、この部屋に居った蠅男と、蠅男が二人も居るのんやろか」
 帆村はそれを聞いて大きく肯《うなず》き、
「そのことなら、さっきやっとのことで謎を解いたんです。蠅男はホテルのなかに居るのを知られないために、電話にも奇略《トリック》をつかったんです」
「へえ、どんな奇略を――」
「それはホテルの交換台からすぐに帳場をつながないで、一旦部屋から外線につないで貰い、電話局から再び別の電話番号でこのホテルに懸け、一度交換台を経て帳場につないで貰ったんですなア。そうすれば、同じホテル内の部屋にかけたにしろ、電話局まで大廻りして来たから、電話の声がホテル内同士でかけるよりはずっと小さくなったんです。実に巧みな奇略だ」
「なるほどなア」と巡査部長は感心をしたが、
「しかし、なんでそんなややこしい事をしましたんやろ。糸子さんの胸の上にでも、その脅迫状をのせといたらええのになア」
「いやそれはつまり、今ホテルに蠅男が入っていることを知られたくはなかったんです。あくまで自分は井上一夫で、蠅男ではないという現場不在証明《アリバイ》を作って置きたかったんです」
「なるほどなるほど。それにしても蠅男ほどの大悪漢のくせに、小さいことをビクビクしてまんな」
「いやそこですよ」
 といって帆村は二人の顔をジッと見た。
「蠅男は今にもう一度このホテルに帰ってくるつもりなんですよ。普通の泊り客らしい顔をしてネ」
「えッ、蠅男がもう一度ここへ帰ってくるというのでっか。さあ、そいつは――そいつは豪《えら》いこっちゃ。どないしまほ」
 そのとき廊下をボーイが、急ぎ足でやって来た。
「ああ、いま帳場に電話が来とりまっせ。井上一夫はんいうお客さんからだす」井上一
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