にあった。彼女の父親を、蠅男から護ろうと努力していながら、遂に蠅男のためにしてやられ、糸子を孤児にしてしまった。その責任の一半は、帆村自身にあるように思って、彼はこの上は、自分の生命にかけて蠅男を探しだすと共に、糸子を救いださねばならないと決心しているのだった。
暗い山路を縫って、約一時間のちに自動車は宝塚に帰ってきた。
そこで長吉は、西の宮ゆきの電車に乗りかえて、駐在所から貰った証明書を大事にポケットに入れたまま、帆村に別れをつげて帰っていった。帆村はこの少年のために、そのうち主家を訪ねて弁明をすることを約束した。
ホテルでは、愕き顔に帆村を迎えた。
なにしろ朝方ドテラ姿でブラリと散歩に出かけたこの客人が、昼食にも晩餐にも顔を見せず、夜更けて、しかも見違えるように憔悴して帰ってきたのだから。
「えろうごゆっくりでしたな、お案じ申しとりました。へへへ」
「いや、全く思わないところまで遠っ走りしたものでネ、なにしろ知合いに会ったものだから」
「はアはア、そうでっか、お惚《のろ》け筋で、へへへ、どちらまで行きはりました」
「ウフン。大分遠方だ。……部屋の鍵を呉れたまえ」
「はア、これだす」と帳場の台の上から大きな札のついた鍵を手渡しながら、不図《ふと》思い出したという風に「ああ、お客さん、あんたはんにお手紙が一つおました。忘れていてえろうすみまへん」
「ナニ手紙?」
帳場の事務員は、帆村に一通の白い西洋封筒を手渡した。帆村がそれを受取ってみると、どうしたものかその白い封筒には帆村の名前も差出人の名前も共に一字も書いてなかった。その上、その封筒の半面は、泥だらけであった。帆村はハッと思った。しかしさりげない態で、ボーイの待っているエレヴェーターのなかに入った。
帆村は四階で下りて、絨毯の敷きつめてある狭い廊下を部屋の方へ歩いていった。
扉の前に立って、念のために把手《ハンドル》を廻してみたが、扉はビクともしなかった。たしかに、錠は懸っている。
なぜ帆村は、そんなことを検《ため》してみたのであろう。彼はなんとなく怪しい西洋封筒を受取ってから、急に警戒心を生じたのであった。
扉には錠が懸っている。
まず安心していいと、彼は思った。そして鍵穴に鍵を挿入して、ガチャリと廻したのであった。その瞬間に、彼は真逆自分が、腰を抜かさんばかりに吃驚《びっくり》させられようとは神ならぬ身の知るよしもなかった。しかし事実、扉一つ距《へだ》てた向うに彼の予期しない異変が待ちうけていたのである。
帆村は、鍵を穴から抜いて、片手にぶら下げた。そして把手をグルッと廻して、扉を内側に押した。部屋のなかは、真暗であった。
扉を中に入ったすぐの壁に、室内灯のスイッチがあった。
帆村は、手さぐりでそのスイッチの押し釦《ボタン》を探した。押し釦はすぐ手にふれた。彼は無造作に、その押し釦を押したのであった。
パッと、室内には明るい電灯が点いた。その瞬間である。彼は、
「呀《あ》ッ!」
といって、手に持っていた鍵を床の上にとり落とした。それも道理であった。空であるべきはずのベッドの上に、誰か夜着をすっぽり被って長々と寝ている者があったのである。
「もしや部屋を間違えたのでは……」
と、咄嗟《とっさ》に疑いはしたが、断じて部屋は間違っていない。自分の部屋の鍵で開いた部屋だったし、しかも壁には、見覚えのある帆村のオーバーが懸っているし、卓子の上にはトランクの中から出したまま忘れていった林檎までが、今朝出てゆくときと寸分たがわずそのとおりに並んでいるのだった。自分の部屋であることに間違いはない。
さあ、すると、ベッドの上に寝ているのは一体何者だろう。
帆村の手は、音もなく滑るように、懸けてあるオーバーの内ポケットの中に入った。そこには護身用のコルトのピストルが入っていた。彼はそれを取出すなり、二つに折って中身をしらべた。
「……実弾はたしかに入っている!」
こうした場合、よく銃の弾丸が抜きさられていて、いざというときに間に合わなくて失敗することがあるのだ。帆村はそこで安心してピストルをグッと握りしめた。そして抜き足差し足で、ソロソロベッドの方に近づいていった。
ベッドの上の人物は、死んだもののように動かない。
帆村は遂に意を決した。彼は呼吸《いき》をつめて身構えた。ピストルを左手にもちかえて、肘をピタリと腋の下につけた。そしてヤッという懸け声もろとも一躍してベッドに躍りかかり、白いシーツの懸った毛布をパッと跳ねのけた。そこに寝ているものは何者?
ピストルをピタリと差しつけたベッドの上の人物の顔? それは何者だったろう?
帆村の手から、ピストルがゴトリと下に滑り落ちた。
「おお――糸子さんだッ」
謎! 謎!
なんという思いがけなさであろう。
自分のベッドの上に長々と寝ている怪人物は何者だろう。それは気味の悪い屍体でもあろうかと、胸おどらせて夜具を剥いでみれば意外にも意外、麗人《れいじん》糸子の人形のような美しい寝顔が現われたのである。これは一体どうしたことであろう。
ベッドの上の糸子は死んでいるのではなかった。目覚めこそしないが、落ついた寝息をたててスヤスヤと睡っているのであった。その蝋《ろう》のように艶のある顔は、いくぶん青褪めてはいたけれど、形のいい弾力のある唇は、まるで薔薇の花片《はなびら》を置いたように紅《あか》かった。
帆村の魂は恐怖の谷からたちまち恍惚の野に浮き上り、夢を見る人のようにベッドの上の麗人の面にいつまでも吸いつけられていた。
「なぜだろう?」
帆村は、解けない謎のために、やっと正気に戻った。夢ではない、糸子が彼の部屋のベッドの上に寝ているのは厳然たる事実だ。厳然たる事実なれば、この大きい意外をもたらした事情はどういうのだろう。それを知らなければならない。
彼は帳場へ電話をかけようかと思って、それに手を懸けた。けれどそのとき不図《ふと》気がついて懐中《ふところ》を探った。
出て来たのは、一通の西洋封筒だった。さっき帳場で渡されてきた宛名も差出人の名前もない変な手紙だ。
彼はそっと封筒をナイフの刃で剥《は》がしてみた。その中からは新聞紙が出て来た。新聞紙を八等分したくらいの小さい形のものだった。
新聞紙が出て来たと見るより早く、帆村は蠅男の脅迫状を連想した。拡げて調べてみると、果然活字の上に、赤鉛筆で方々に丸がつけてある。これを拾って綴ってゆくと、文章になっていることが分った。
「ウム、やはり蠅男の仕業だな」
赤い丸のついた字を拾ってゆくと、次のような文句になった。
「――この事件カラただちに手をひケ、今日まデワ大メに見テやる、その証コに、イと子を安全に返シテやる、手を引カネバ、キサマもいと子も皆、いのちがナイものと覚悟セヨ、蠅男より、ほムラそう六へ――
果然、蠅男からの脅迫状だった。
帆村探偵に、この事件から手を引かせようという蠅男の魂胆だった。
帆村は、この新聞紙に赤丸印の脅迫状を読んでいるうちに、恐怖を感ずるどころかムラムラと癪《しゃく》にさわって来た。
「かよわい糸子さんを威《おど》かしの種に使おうなんて、卑怯千万な奴だ」
それにしても、糸子はどうしてこの部屋へ搬《はこ》ばれて来たのだろう。またその脅迫状はどうして帳場に届けられたのだろう。それが分れば、憎むべき蠅男の消息がかなりハッキリするに違いない。
帆村は電話を帳場にかけた。
「誰か僕の居ない留守に、この部屋に入ったろうか」
帳場では突然の帆村の質問の意味を解しかねていたが、やっとその意味を了解して返事をした。
「ハアけさ、お客さんが外出なさいまして、その後でボーイが室内をお片づけしただけでっせ。その外に、誰も一度も入れしまへん」
「ふうむ。ボーイ君の入ったのは何時かネ」
「そうだすな。ちょっとお待ち――」と暫く送話口をおさえた後で、「けさの午前十一時ごろだす。それに間違いおまへん」
「嘘をついてはいけない。その後にも、この部屋を開けたにちがいない。さもなければ鍵を誰かに貸したろう」
「いいえ滅相《めっそう》もない。鍵は一つしか出ていまへん。そしてボーイに使わせるんやっても、時間は厳格にやっとりまんが、ことに昼からこっちずっと、お部屋の鍵はこの帳場で番をしていましたさかい、部屋を開けるなどということはあらしまへん」
帳場の返事はすこぶる頑固なものであった。帆村はそれを聞いていて、これは決して帳場が知ったことではなく、そっちへは万事秘密で行われたものに違いないと悟った。
全く不思議なことだったが、何者かが帳場と同じような鍵を使って扉を開け、そしてそこに糸子を入れて逃げたのだった。
これももちろん蠅男の仕業にちがいない。一方において脅迫状を送り、そして他方において糸子を池谷別邸からこのベッドの上に送りこんだのに違いない。しかし蠅男は、一体どうして糸子を、ソッとこの部屋に送りこんだものだろうと帆村は考えた。
「モシモシお客さん。何か間違いでも起りましたやろか」
帳場では、訝《いぶか》しげに聞きかえした。
「うむ。――」帆村は唸ったが、このとき或ることに気がついて受話器をもちかえ、「そうだ。さっき帳場で貰った西洋封筒に入った手紙のことだが、あれは誰が持ってきたのかネ」
「あああの手紙だっか。あれは――」と帳場氏は言葉を切ってちょっと逡《ためら》った。
「さあ、それを云ってくれたまえ。誰があの手紙を持ってきたのだ」
「――そのことだすがな、お客さん。ちょっと妙なところがおまんね。実はナ、あの手紙は私が拾いに出ましてん」
「手紙を拾いに出たとは?」
帆村の眉がピクリと動いた。
「いえーな、それがつまり妙やなアとは思ってましたんですわ。詳しくお話せにゃ分ってもらえまへんが、あれは午後四時ごろやったと思いますが、この帳場へ電話が懸って来ましてん。懸ってみますと男の声でナ、いま玄関を出ると庭に西洋封筒を抛《ほう》りこんであるさかい、それを拾って帆村さんに渡しといて呉れ――と、こないに云うてだんネ。そして電話はすぐ切れました。なにを阿呆らしいと思うたんやけど、まあまあそんにして玄関の外に出ましたんや。するとどうだす、電話のとおりに、砂利の上にあの西洋封筒が落ちていますやないか。ハハア、こらやっぱり本当やと思って、それで拾って、お客さんにお届けしたというような次第だす」
帆村はそれを聞いて、たいへん興味を覚えた。ホテルの庭に置いた手紙を、拾ってくれと帳場に電話をかけたというのは、これは決して普通のやり方ではない。とにかくそれが事実にちがいないことは、封筒に附着していた泥を見てもしれる。それが本当だとすると、この奇妙な脅迫状の配達方法のなかに、なにか深い意味があるものと見なければならぬ。
さて、それは、いかなる深い意味をもっているか、帆村の頭脳は麗人糸子の身近くにあることを忘れて、愈々《いよいよ》冴えかえるのであった。彼はその秘密をどう解くであろうか。
怪しき泊り客
不思議な脅迫状の配達方法であった。
「ねえ君」と帆村は受話器をまだ放さないでいった。
「その電話の相手は、どこから懸けたのだか分ったかネ」
「いや、分りまへん」
「もしやこのホテル内から懸けたのではなかったかネ」
「いえ、そら違います。ホテルの中やったらもっともっと大きな声だすわ。そしてもっと癖のある音をたてますがな。ホテルの外から懸って来た電話に違いあらしまへん」
「ホテルの中から懸けた電話ではないというんだネ。フーム」帆村は首を左右にふった。それはひどく合点《がてん》が行かぬというしるしだった。
宛名なしの手紙をホテルの庭に抛りこんで置いて、そして間髪を入れず、外からその手紙を拾えと電話をかけてくることがそう安々と出来ることだろうか、一分違ってもその手紙は誰かに拾われるかもしれないんだ。そうすると必ず間違いが起るに極っている。しかも常に用意周到な蠅男である。彼がそんな冒険をする筈がない。帆村の直感では、蠅男はこのホテル
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