帆村の奇略


 その翌朝のことであった。一夜を糸子の家に明かした帆村は、暁を迎えて昨夜の蠅男との恐ろしい格闘を夢のように思った。
 全く生命がけの争闘であった。こちらもたった一つしかない生命を賭け、怪物蠅男も亦その時は死にもの狂いで立ち向ったのだった。麗人糸子さえ、男子に優るとも劣らないような覚悟を以て死線を乗り越えたのだ。隙間を漏るる風にも堪えられないような乙女をして、こうも勇敢に立ち向わせたものは何か。それは云うまでもなく、乙女心の一筋に彼女の胸に秘められたる愛の如何に熾烈なるかを物語る以外の何ものでもなかった。
「帆村はん。もうお目醒め――」
 と麗人糸子は、憔悴《しょうすい》した面に身躾《みだしな》みの頬紅打って、香りの高い煎茶の湯呑みを捧げ、帆村の深呼吸をしているバルコニーに現われた。
「やあ、貴女ももうお目醒めですか。昨夜は若し貴女《あなた》が居なかったら、僕はこうして夜明けの空気など吸っていられなかったでしょう。うんと恩に着ますよ」
「まあ、なに言うてだんね。帆村はんこそうち[#「うち」に傍点]のため何度も危ない目におうてでして、どないにか済まんことやといつも手を合わせ
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