。しかし帆村はなにも応えなかった。帆村にもこの返事は直ぐには出来ないであろう。
この応答《こたえ》が、もしすぐにこの場でできたとしたら、「蠅男」の正体は案外楽に解けたであろう。
奇妙なる金具のギザギザ溝の痕!
そのとき室の入口に、なにか騒がしい諍《いさか》いが始まった。
踏台の上にいた検事はヨロヨロとした腰付で入口を見たが、ひと目で事情を悟った。
「オイ帆村君。被害者の令嬢がこの惨劇を感づいて入りたがっているようだ。君ひとつ、いい具合に扱ってくれないか。むろんここへ近付いてもかまわないが、その辺よろしくネ」
帆村は検事の頼みによって、入口のところへ出ていった。警官が半狂乱の糸子を室内に入れまいとして骨を折っている。
帆村はそれをやんわりと受取って、彼女の自制を求めた。糸子はすこし気を取直したように見えたが、こんどは帆村の胸にすがりつき、
「――たった一人の親の大事だすやないか。私《うち》は心配やよって、さっきから入口の前をひとりで見張ってたくらいや。警官隊もとんとあきまへんわ。警戒の場所を離れたりして、だらしがおまへんわ。そんなことやさかい、私のたった一人の親が殺されてしもうたんやしい。もう何云うても、こうなったら取りかえしがつかへんけれど――そないにして置いて、私がお父つぁんのところへ行こうと思うたら、行かさん云やはるのは、なんがなんでもあんまりやおまへんか」
と、ヒイヒイいって泣き叫ぶのだった。
それを聞いていると、糸子が父の死を既《すで》に察していることがよく分った。帆村は糸子に心からなる同情の言葉をかけて、気が落ついたら、自分と一緒に室内へ入ってお父さまの最期《さいご》を見られてはどうかと薦《すす》めた。誠意ある帆村の言葉が通じたのか、糸子は次第に落つきを回復していった。
それでも父の書斎に一歩踏み入れて、そこに天井からダラリと下っている父親の浅ましい最期の姿を見ると、糸子はまた新たなる愕きと歎きとに引きつけそうになった。もしも帆村が一段と声を励まして気を引立ててやらなかったら、繊弱《かよわ》いこの一人娘は本当に気が変になってしまったかもしれない。
「おおお父《とっ》つぁん。な、なんでこのような姿になってやったん」
糸子は帆村の手をふりきって、冷い父親の下半身にしっかり縋《すが》りつき、そしてまた激しく嗚咽《おえつ》をはじめたのであった。鬼神のように強い警官たちではあったけれど、この美しい令嬢が先に母を喪い今こうして優しかった父を奪われて悲歎やる方なき可憐な姿を見ては、同情の心うごき、目を外らさない者はなかった。
「おおお父つぁん。誰かに殺されてやったかしらへんけれど、きっと私が敵《かたき》を取ったげるしい。迷わんと、成仏しとくれやす。南無阿弥陀仏。――」
糸子はワナワナ慄う口唇《くちびる》をじっと噛みしめながら、胸の前に合掌した。若い警官たちは、めいめいの心の中に、この慨《なげ》き悲しむ麗人を慰めるため、一刻も早く犯人を捕えたいものだと思わぬ者はなかった。
帆村荘六とて、同じ思いであった。彼は糸子の傍に近づき、もう余り現場に居ない方がいいと思う旨伝えて、父の霊に別れを告げるよう薦めた。
糸子はふり落ちる泪の中から顔をあげ、帆村に礼などをいった。彼女の心は本当に落つきを取り戻してきたものらしい。彼女は父の屍体を、初めて見るような面持で見上げた。そして帆村の腕を抑えて、思いがけないことを問いかけた。
「もし――。父はこういう風に下っていたところを発見されたんでっしゃろか」
「もちろん、そうですよ。それがどうかしましたか」
帆村には、この糸子の言葉がさらに腑に落ちかねた。
「いや別に何でもあれしまへんけれど――よもや父は、自殺をするために自分で首をくくったのやあれしまへんやろな」
「それは検事さんの調べたところによってよく分っています。犯人は鋭い兇器をもってお父さまの後頭部に致命傷を負わせて即死させ、それから後にこのように屍体を吊り下げたということになっているんですよ。僕もそれに同感しています」
「はあ、そうでっか」と糸子は肯《うなず》き、「こんな高いところに吊るのやったら、ちょっと簡単には出来まへんやろな。犯人が、いま云やはったようなことをするのに、時間がどの位かかりまっしゃろ」
「ええ、なんですって。この犯行にどの位時間が懸るというのですか。うむ、それは頗《すこぶ》る優秀なる質問ですね。――」
帆村は腕を組んで、犯行の時間を推定するより前に、なぜ糸子が、このような突然の質問を出したかについて訝《いぶか》った。
答に出た「蠅男」
「犯行に費した時間はというと、そうですね、まず少くとも二分は懸るでしょうね。手際が悪いとなると、五分も十分も懸るでしょう」
「ああそうでっか。二分より
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