た。それは勝手知ったる主治医の家であったから。
 糸子の姿が扉のうちに消えてしまうと、帆村はさらに全身に緊張が加わるのを覚えた。彼は眼ばたきもせずに、木立の間から控家の様子を熱心に窺った。一分、二分……。何の変りもない。
「まだ大丈夫らしい。挨拶かなんかやっているところだろう」
 暫くすると、二階の窓にかかっている水色のカーテンがすこし揺らいだのを、敏捷《びんしょう》な帆村は咄嗟《とっさ》に見のがさなかった。
「……二階へ上ったんだ」
 そのときカーテンの端が、ほんのすこし捲《ま》くれた。そしてその蔭から、何者とも知れぬ二つの眼が現われて、ジッとこっちを眺めているのだった。
「誰? 糸子さんだろうか。ハテすこし変だぞ」
 と思ったその瞬間だった。二つの怪しい眼は、突然カーテンの蔭に引込んだ。まあよかった――と思う折しも、いきなりガチャーンと凄《すさ》まじい音響がして、その窓の硝子が壊れてガチャガチャガチャンと硝子の破片が軒を滑りおちるのを聞いた。
 帆村がハッと息をのむと、それと同時にカーテンの中央あたりがパッと跳ねかえって、そこから真青な女の顔が出た。
「あッ、糸子さんだッ。――」
 思わず帆村の叫んだ声。いよいよ糸子の危難である。それは更に明瞭《めいりょう》となった。なぜならカーテンの間から、黒い二本の腕がニューッと出て一方の手は糸子の口をおさえ、他方の手は糸子の背後から抱きしめると、強制的に彼女の身体をカーテンのうちに引張りこんだから。
「な、何者!」
 カーテンは大きく揺れながら、糸子と黒い腕の人物を内側にのんでしまった。
 帆村は心を決めた。すぐさま邸内に踏みこもうとしたが、帆村は彼の服装がそういう襲撃に適しないのを考えてチェッと舌打ちした。屍体を焼く悪臭の奇人館に踏みこんだときも、彼は宿屋のどてら姿だった。いままた糸子の危難を救うために、謎の家に突進しようとして気がついてみれば、これもまたホテルで借りたどてら姿なんである。これでは身を守るものも、扉《ドア》の鍵を外す合鍵もなんにもない。頼むは二本の腕と、そして頭脳《あたま》の力があるばかりだった。思えば何と祟《たた》るどてらなんだろう。もうこれからは、寝る間だってキチンと背広を着ていなきゃ駄目だ。
 帆村は咄嗟《とっさ》になにか得物《えもの》はないかとあたりを見廻した。
 そのとき彼の目にうつったのは、叢
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