子の父、玉屋総一郎。彼女にはもう父もなく、母とはずっと昔に死に別れ、今は全く天涯の孤児とはなってしまった。麗人の後姿に見える深窶《ふかやつ》れに、だれか涙を催さない者があろうか。
 それにしても、憎んでも飽き足りないのは彼の蠅男! 蠅男こそ稀代の殺人魔である。
 しかし正体の知れない蠅男であった。帆村探偵の出した答によると、蠅男は密室のなかに煙のように出入する通力をもち、そして背丈はおよそ八尺もある非常に力の強い人物である。だがそんな化物みたいな人間が実際世の中に住んでいるとは誰が信じようか。しかも帆村は出鱈目をいっているのではない。彼は犯跡から精《くわ》しく正しく調べあげて間違いのない答を出したのだ。ああ稀代の奇怪! 蠅男とは、昔の絵草紙に出てくる大入道か?
 蠅男の正体をどうしても突き止めねば、再び東京へかえらないと心に誓った青年探偵帆村荘六は、身はいま歓楽境宝塚新温泉地にあることさえ全く忘れ、全身の神経を両眼にあつめて疎林の木立の間から、池谷控家に近づきゆく糸子の後姿をジッと見まもっているのだった。さきほどの話合いで、糸子と帆村との間にはなにか、或る種の了解ができているらしいことは、糸子の健気《けなげ》な足どりによってもそれと知られる。
 池谷医師から(きょうの午前中に、誰にも知らさず訪ねてこい、さもないと取りかえしのつかないことが起る)と電話された糸子だったが、その用事とは一体なにごとであろうか。
 また池谷と連れだって、この控家のなかに入った若い丸顔の女性については、糸子は心あたりがないといったが、果して彼女は何者であろうか。
 その怪しき女と池谷とが、宝塚の温泉のなかから一銭活動の「人造犬」というフィルムを買って持ちだしているんだが、それは何の目的あってのことだろう?
 こんな風に考えてくると、帆村はこれから糸子を中心にして、向うに見える池谷控家のなかに起ろうとする事件が、これまでの数々の疑問にきっとハッキリした答を与えてくれるにちがいないことを思うと、旅館のどてらの下に全身が武者ぶるいを催《もよお》してくるのだった。――
 さて糸子は帆村に注意されたとおり、一度とて後をふりむいたりなどせず、ひたすら彼女単身で訪ねたふりを装った。
 彼女は池谷控家の玄関に立った。
 玄関の扉が半開きになっていた。そこで呼び鈴の釦《ぼたん》を軽くおした上、なかに入っていっ
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