ッ、あの田代がですか」
「ほんとに迂濶《うかつ》だった。失踪したのは、取調べの結果、先月の二十九日、つまり三日前だった。そいつに誰も気がつかなかった……」と口惜しそうだ。
「旅行でもないんでしょうネ」
「どうして、旅行じゃない。表の締りもないしさ、居間も寝室も、それから地下道への入口も開いていて、彼が其処に居なければならない家の中の様子だのに、姿が見えない」
「例の地下にある田代自慢の巨人金庫は如何です」
「ほう、君も巨人金庫のことを知っているんだね」と戸沢刑事はにやりと笑い、「金庫は外見異常なしだ。あの複雑なダイヤルの上にも鉄扉にも、怪しい指紋は残っていない。内部を見たいのだが、暗号が見当らないので弱ってしまう」
「ああ、暗号ですか」と帆村は何気なく聞きかえした。
「あいつは黄血社と暁団とで狙っていたものだ。黄血社はあの金庫の真上にあたる地上に家を建てて、地下道を掘ろうと考えている。……今度とうとう尻尾をつかんでやったがね。しかし金兵衛の失踪は、前の番頭である錨健次殺しと共に、暁団の演出に違いないと思うんだ。……本庁ではいま暁団を追いまわしているんだが、敏捷な奴で、団長の江戸昌をはじめ団員どもがすっかり何処かへ行ってしまった。こんなことは前代未聞さ。不良少年係でそろと、俺はもう威張っていられなくなったよ……」名刑事は白髪のだいぶん目立つ五分刈の頭を抑えて、淋しい顔をした。
「そうですか。では田代老人の金庫を廻って、暁団と黄血社の死にもの狂いの闘争が始まったんですね」
「で、貴方の此処へお出になった御用は……」と帆村は訊ねた。
「俺かい。俺は暁団の一味として、三原玲子を捕えにやって来たんだが……」
「三原玲子がどうかしましたか」
「先刻まで居ったそうだが、どこかへ隠れてしまったよ。はっはっ、なっちゃいない、全く」
 名刑事は空《うつ》ろな笑い声をあげて、自らを嘲笑した。私は老刑事の心中を思いやって眼頭が熱くなるのを覚えた。
「……私が探し出しましょう、戸沢さん」
 帆村は決然として云い出した。
「君が探す?」と刑事は帆村を見て、「そうか、頼むよ。……だが、江戸昌も死にもの狂いだ。気をつけたがいい」


     5


「……あらまそーお、マダム居ないの。騙したのね。外は寒いわ、正に。おお寒む……」
 帆村は、決戦の演ぜられているという江東を余所に、自宅の机の前に座って、三原玲子が間違えて喋ったという例の台辞を、譫言《うわごと》かなにかのように何遍も何遍もくりかえして呟《つぶや》いた。――暗号といえば「獏鸚」のことなど、すっかり忘れたように見えた。「どうしても、この文句の中に、暗号が隠れていなければならない。こいつはきっと、あの江東のアイス王の巨人金庫を開く鍵でなければならぬ!」
 そういう信念のもとに、帆村は世間のニュースを耳に留めようともせず、只管《ひたすら》にこの暗号解読に熱中した。――その間、江東のアイス王の金庫はいくたびとなく専門家の手で、ダイヤルを廻されたり、構造を調べられたりしたが、大金庫は巨巌のようにびくりともしなかった。
 そのうちにも、暁団の捜査が続けられたが、彼等は天井裏から退散した鼠のように、何処へ潜《ひそ》んだのか皆目行方が知れなかった。
 そうなると得意なのは黄血社の連中だった。
 ダムダム珍は、例の巣窟に党員中の智恵者を集めて、鳩首《きゅうしゅ》協議を重ねていた。秘報によると、それは暁団の不在に乗じて、警戒員の隙を窺《うかが》い、例の金庫から時価一億円に余るという金兵衛の財宝を掠《かす》める相談だとも伝えられ、また予ねて苦心の末に手に入れた暁団の秘密を整理して当局に提出し、一挙にして暁団を地上から葬ろうという相談だとも云われた。
「一体何処へ隠れてしまったのだろう?」
 巨人金庫の前に詰めていた特別警備隊も、二日、三日と経つと、すこし気がゆるんできた。そして空しく巨億の財産を嚥《の》んでいる大金庫を憎らしく思い出した。
 そのとき、わが友人帆村は、幽霊のようになって、その穴倉の中に入ってきた。――警備員はそれを見るなり皮肉な挨拶をするのであった。
 帆村は黙々として、ポケットからノートを出した。右手をダイヤルに伸べ、左手で電気釦を押しながら、私の差しだす懐中電灯の明りの下で、彼の誘き出した第一、第二等々の解読文字を一つ一つ丹念に試みていった。――しかし今日もまた空《むな》しい努力に終ったのだった。
「いよいよ二三日うちにこの金庫を焼き切ることにしたそうだ……」
 と、そんな噂が耳に入った。その噂だけが今日の皮肉な土産だった。
 家にかえると、帆村は黙々として、また白紙のうえに、鉛筆で文字を模様のように書き続けるのだった。
「どうしたい。ちと憩《やす》んではどうか」
 と私は彼に薦《すす》めた。

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