、溶かすかしなければ出て来ない終身《しゅうしん》の認識標なんです」
「そんな出鱈目《でたらめ》は、よせ!」
鴨田が蒼白《まっさお》にブルブルと慄えながら呶鳴った。
「いや、お気の毒に鴨田さんの計画は、とんだところで失敗しましたよ。貴方《あなた》は園長を殺すために、医学を修《おさ》め、理学を学び、スマトラまで行って蟒の研究に従事《じゅうじ》せられた。そして日本へ帰られると、多額の寄附をしてこの爬虫館を建て、貴方は研究を続けられた。七頭のニシキヘビは貴方の研究材料であると共に、貴重な兇器《きょうき》を生むものだった。私どもはよく医学教室で、犬を手術し、唾液腺《だえきせん》を体外へ引張《ひっぱ》り出して置いて、これにうまそうな餌を見せることにより、体外の容器へ湧きだした犬の唾液を採集する実験を見かけますが、貴方は生物学と外科とにすぐれた頭脳と腕とで、蟒《うわばみ》の腹腔《ふくこう》に穴をあけ、その消化器官の液汁《えきじゅう》を、丹念に採集したのです。それは周到なる注意で今日まで貯蔵されていました。そして又ここに並んでいるタンクは、巧妙な構造をもった人造胃腸だったんです」
あまりに意外な帆村の言葉に、一同は唖然《あぜん》として彼の唇を見守るばかりだった。
「鴨田さんは三十日の午前十一時二十分頃、園長をひそかに人気《ひとけ》のない此の室に誘い、毒物で殺したんです。そこで直ちに園長の軽装《けいそう》を剥《は》いで裸体とし、着衣などは、あの大鞄《おおかばん》に入れ其《そ》の夕方、何喰わぬ顔で園外に搬《はこ》び去りましたが、それは後《のち》の話として、鴨田さんは園長の口をこじ開けるや、蟒の消化液では溶けない金歯をすっかり外《はず》して別にすると、もうこれで全部が溶けるものと安心して此の第三タンクに入れました。そこで永年貯蔵して置いたニシキヘビ消化液をタンクへ入れて密封をすると、電動仕掛けで同心管――それは襞《ひだ》をもった人造胃腸なんですが、その胃腸を動かし始めたんです。適当な温度に保ってこれを続けたものですから、鴨田さんの研究によると、今夜の八時頃までに完全に園長の身体はタンクの中で、影も形もなく融解《ゆうかい》してしまうことが判っていました。
鴨田さんにその自信があったればこそ、この時間になってタンクを開くことを承知されたのです。そして尚《なお》も計画をすすめて、タンクの中の溶液を、そのまま下水へ流してしまうことにしました。急いで流せば、こんな静かなところだからそれと音を悟《さと》られるので、排水弁《はいすいべん》を半開《はんびらき》とし、ソロソロと園長の溶けこんだタンクの内容液を流し出したんです。しかしそれは一つの大失敗を残しました。流出速度が極めて緩慢《かんまん》だったために、園長の体内に潜入していた弾丸《たま》は流れ去るに至らず、そのまま襞《ひだ》の間に残留《ざんりゅう》してしまったんです。この弾丸というのは、園長が沙河《さか》の大会戦《だいかいせん》で奮戦《ふんせん》の果《はて》に身に数発の敵弾をうけ、後《のち》に野戦《やせん》病院で大手術をうけましたが、遂に抜き出すことの出来なかった一弾《いちだん》が身体の中に残りました。その一弾が皮肉《ひにく》にも棺桶《かんおけ》ならぬ此のタンクの中へ残ったわけなんです。本当に恐ろしいことですね。なお附け加えると、園長の金歯《きんば》は、大胆《だいたん》にも私の見ている前でビーカー中の王水《おうすい》に溶かし下水道へ流しました。万年筆や釦《ボタン》は鴨田さん自身が撒《ま》いたもので、これは犯罪者特有のちょっとした掻乱手段《そうらんしゅだん》です」
「出鱈目《でたらめ》だ、捏造《ねつぞう》だ!」
鴨田は尚も咆哮《ほうこう》した。
「では已《や》むを得ませんから、最後のお話をいたしましょう」帆村は物静かな調子で云った。「この犯行の動機は、まことに悲惨《ひさん》な事実から出て居ます。話は遠く日露戦争の昔にさかのぼりますが、河内園長が満州の野に出征《しゅっせい》して軍曹《ぐんそう》となり、一分隊の兵を率いて例の沙河《さか》の前線《ぜんせん》、遼陽《りょうよう》の戦いに奮戦《ふんせん》したときのことです。其《そ》のとき柵山南条《さくやまなんじょう》という二等兵がどうした事か敵前というのに、目に余るほど遺憾《いかん》な振舞《ふるまい》をしたために、皇軍《こうぐん》の一角が崩れようとするので已《や》むを得ず、泪《なみだ》をふるって其の柵山二等兵を斬殺《ざんさつ》したのです。これは、軍規《ぐんき》に定めがある致方《いたしかた》のない殺人ですが、それを見ていた分隊中の或る者が、本国へ凱旋後《がいせんご》柵山二等兵の未亡人にうっかり喋《しゃべ》ったのです。未亡人は殺された夫に勝《まさ》るしっかり者で、そのときまだ幼かった一人の男の子を抱きあげて、河内軍曹への復讐《ふくしゅう》を誓ったのです。その男の子――兎三夫《とみお》君は爾来《じらい》、母方の姓《せい》鴨田を名乗って、途中で亡くなった母の意志を継《つ》ぎ、さてこんなことになったのです」
帆村は語を切った。しかし鴨田学士は、今度は何も云わずに項低《うなだ》れていた。
「もう後は云う必要がありますまい。最後に御紹介したい一人の人物があります。それはこの話のヒントを与えて以後私の調べに貢献《こうけん》して下すった故園長の古い戦友、半崎甲平老人であります。この老人は同郷《どうきょう》の出身ですが、衛生隊員として出征せられていたので、後に園長がX線で体内の弾丸《たま》を見たときにも立合い、また戦場の秘話を園長から聴きもした方です。鴨田さんの亡《な》き父君のことも知ってられるんですから、此処《ここ》へお連れしました。いま御案内して参りましょう」
そういって帆村は立上ると、入口の扉《ドア》をあけた、が、其処には老人の姿は見えなかった。向うを見ると、爬虫館の出入口が人の身体が通れるほどの広さにあき、その外に真黒な暗闇《やみ》があった。
「呀《あ》ッ、鴨田さんが自殺しているッ」
そういう声を背後に聞いた帆村は、もう別にその方へ振返ろうともしなかった。
そして彼の胸中には、事件を解決するたびに経験するあの苦《に》が酸《ず》っぱい悒鬱《ゆううつ》が、また例の調子で推《お》し騰《のぼ》ってくるのであった。
底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1932(昭和7)年10月号
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2005年5月26日作成
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