爬虫館事件
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)帆村荘六《ほむらそうろく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一時間|懸《かか》ります。

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)しかも[#「しかも」に傍点]だ
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     1


 前夜の調べ物の疲れで、もう少し寝ていたいところを起された私立探偵局の帆村荘六《ほむらそうろく》だった。
「お越し下すったのは、どんな方かね」
「ご婦人です」助手の須永《すなが》が朗《ほが》らかさを強《し》いて隠すような調子で答えた。「しかも年齢《とし》の頃は二十歳《はたち》ぐらいの方です」
(なにが、しかも[#「しかも」に傍点]だ)と帆村はパジャマの釦《ボタン》を一つ一つ外《はず》しながら思った。この手でも確かに目は醍《さめ》る。……
「十分間お待ちねがうように申上げて呉《く》れ」
「はッ。畏《かしこ》まりました」
 須永はチョコレートの兵隊のように、わざと四角ばって、帆村の寝室《しんしつ》を出ていった。
 隣りの浴室の扉《ドア》をあけ、クルクルと身体につけたものを一枚残らず脱ぎすてると、冷水を張った浴槽《よくそう》へドブンと飛び込み、しぶきをあげて水中を潜《くぐ》りぬけたり、手足をウンと伸《のば》したり、なんのことはない膃肭獣《おっとせい》のような真似をすること三分、ブルブルと飛び上って強《こわ》い髭《ひげ》をすっかり剃《そ》り落《おと》すのに四分、一分で口と顔とを洗い、あとの二分で身体を拭《ぬぐ》い失礼ならざる程度の洋服を着て、さて応接室の内扉《うちドア》をノックした。
 応接室の函《はこ》のなかには、なるほど若い婦人が入っていた。
「お待たせしました。さあどうぞ」と椅子を進めてから、「早速《さっそく》ご用件を承《うけたまわ》りましょう」
「はァ有難とう存じます」婦人は帆村の切り出し方の余りに早いのにちょっと狼狽《ろうばい》の色を見せたが、思いきったという風《ふう》で、黒眼がちの大きい瞳を帆村の方に向け直した。その瞳の底には言いしれぬ憂《うれ》いの色が沈んでいるようであった。「ではお話を申しあげますが、実は父が、突然行方不明になってしまったんでございます――。昨日の夕刊にも出たのでございますが、あたくしの父というのは、動物園の園長をして居ります河内武太夫《かわちたけだゆう》でございます」
「ああ、貴女が河内園長のお嬢さんのトシ子さんでいらっしゃいますか」帆村は夕刊で、憂いに沈む園長の家族として令嬢トシ子(二〇)の写真を見た記憶があった。その記事は社会面に三段抜きで「河内園長の奇怪な失踪《しっそう》・動物園内に遺留《いりゅう》された帽子と上衣」といったような標題《ひょうだい》がついていたように思う。
「はァ、トシ子でございます」と美しい眼をしばたたき、「ご存知でもございましょうが、私共の家は動物園の直《す》ぐ隣りの杜《もり》の中にございまして、その失踪しました十月三十日の朝八時半に父はいつものように出て行ったのです。午前中は父の姿を見たという園の方も多いのでございますが、午後からは見たという方が殆んどありません。お午餐《ひる》のお弁当を、あたくしが持って行きましたが、それはとうとう父の口に入らなかったのでした。正午にも事務所へ帰ってこないことを皆様不思議に思っていらっしゃいましたが、父は大分変り者の方でございまして、気が変るとよく一人でブラリと園を出まして、広小路《ひろこうじ》の方まで行って寿司屋《すしや》だのおでん屋などに飛び込み、一時半か二時にもなってヒョックリ帰園《きえん》いたしますこともございますので、その日も多分いつもの伝《でん》だろうと、皆さん考えておいでになったのです。しかし閉園時間の午後五時になっても帰って参りません。たまにはずっと街へ出掛けて夜分まで帰らないこともありますが、その日は事務室に帽子もあり上衣も残って居ますので、いつもとは少し違うというので、西郷《さいごう》さん――この方は副園長をしていらっしゃる若い理学士です――その西郷さんがお帰りにうちへお寄り下すって、『園長の例の病気が始まった様《よう》ですよ』と注意をしていって下さいました。ところが其の夜は、とうとう帰って参りません。夜遅くなることはありましても、たとい一時になっても二時になっても帰ってくる父です。それが帰って来ないのですから、どうしたことだろうと母も私共も非常に心配しています。園内も調べていただきましたが判りません。警察の方へも捜索方《そうさくかた》をお願いいたしましたが、『別に死ぬ動機も無いようだから今夜あたり帰って来られますよ』と云って下さいました。しかし私共は、なんだか其《そ》の儘《まま》では、じっと待っていられないほど不安なのでございます。万一父が危害《きがい》を加えられてでもいるようですと、一刻《いっこく》も早く見付けて助け出したいのでございます。それで母と相談をして、お力を拝借《はいしゃく》に上《あが》ったわけなのでございます。どう思召《おぼしめ》しましょうか、父の生死《せいし》のほどは」
 トシ子嬢は語り終ると、ほんのり紅潮《こうちょう》した顔をあげて、帆村の判定を待った。
「さあ――」と帆村は癖で右手で長くもない顎《あご》の先をつまんだ。「どうもそれだけでは、河内園長の生死《しょうし》について判断はいたしかねますが、お望みとあらば、もう少し貴女《あなた》様からも伺《うかが》い、その上で他の方面も調べて見たいと思います」
「お引受け下すって、どうも有難とう存じます」トシ子嬢はホッと溜息《ためいき》をついた。「何なりとお尋《たず》ねくださいまし」
「動物園では大いに騒いで探したようですか」
「それはもう丁寧《ていねい》に探して下すったそうでございます。今朝、園にゆきまして、副園長の西郷さんにお目に懸《かか》りましたときのお話でも、念のためと云うので行方不明になった三十日の閉門《へいもん》後、手分けして園内を一通り調べて下すったそうです。今朝も、また更《さら》に繰返《くりかえ》して探して下さるそうです」
「なるほど」帆村は頷《うなず》いた。「西郷さんは驚いていましたか」
「はァ、今朝なんかは、非常に心配して居て下さいました」
「西郷さんのお家とご家族は?」
「浅草《あさくさ》の今戸《いまど》です。まだお独身《ひとり》で、下宿していらっしゃいます。しかし西郷さんは、立派な方でございますよ。仮《か》りにも疑うようなことを云って戴《いただ》きますと、あたくしお恨《うら》み申上げますわ」
「いえ、そんなことを唯今考えているわけではありません」
 帆村は今時《いまどき》珍らしい、日本趣味の女性に敬意と当惑《とうわく》とを捧《ささ》げた。
「それから、園長はときどき夜中の一時や二時にお帰宅《かえり》のことがあるそうですが、それまでどこで過していらっしゃるのですか」
「さァそれは私もよく存じませんが、母の話によりますと、古いお友達を訪ねて一緒にお酒を呑んで廻るのだそうです。それが父の唯一の道楽でもあり楽しみなんですが、それというのもそのお友達は、日露戦役《にちろせんえき》に生き残った戦友で、逢えばその当時のことが思い出されて、ちょっとやそっとでは別れられなくなるんだということです」
「すると園長は日露戦役に出征《しゅっせい》されたのですね」
「は、沙河《さか》の大会戦《だいかいせん》で身に数弾《すうだん》をうけ、それから内地へ送還《そうかん》されましたが、それまでは勇敢に闘いましたそうです」
「では金鵄勲章組《きんしくんしょうぐみ》ですね」
「ええ、功《こう》六級の曹長《そうちょう》でございます」応《こた》えながらも、こんなことが父の失踪に何の関係があるのかと、トシ子は探偵の頭脳《あたま》に稍《やや》失望を感じないわけにゆかなかった。
 しかし最後へ来て、この些細《ささい》らしくみえるのが、事件解決の一つの鍵となろうとは二人もこの時は夢想《むそう》だもしなかった。
「園長はそんなとき、帽子も上衣も着ないでお自宅《うち》にも云わず、ブラリと出掛けるのですか」
「そんなことは先ずございません。自宅に云わなくとも、帽子や上衣《うわぎ》は暖いときならば兎《と》に角《かく》、もう十一月の声を聞き、どっちかと云えば、オーヴァーが欲しい時節です。帽子や洋服は着てゆくだろうと思いますの」
「その上衣はどこにありましょうか。鳥渡《ちょっと》拝見したいのですが……」
「上衣はうちにございますから、どうかいらしって下さい」
「ではこれから直ぐに伺いましょう。みちみち古い戦友のことも、もっと話して戴《いただ》こうと思います」
「ああ、半崎甲平《はんざきこうへい》さんのことですか?」トシ子嬢は、父の戦友の名前を初めて口にしたのだった。


     2


 園長邸を訪ねた帆村は心痛《しんつう》している夫人を慰《なぐさ》め、遺留《いりゅう》の上衣を丹念に調べてから何か手帖に書き止めると、外《ほか》に園長の写真を一葉借り、園長の指紋を一通り探し出した上で地続《じつづ》きの動物園の裏門を潜《くぐ》ったのだった。
 西郷という副園長は、すぐ帆村に会ってくれた。あの西郷隆盛の銅像ほど肥《こ》えている人ではなかったが、随分《ずいぶん》と身体の大きい人だった。
「園長さんが失踪《しっそう》されたそうで御心配でしょう」
 と帆村は挨拶《あいさつ》をした。「一体いつ頃お気がつかれたのですか」
「全く困ったことになりましたよ」巨漢《きょかん》の理学士は顔を曇らせて云った。「いつ気がついたということはありませんが、不審をいだいたのは、あの日の正午過《ひるすぎ》でしょう。園長が一向《いっこう》食事に帰ってこられませんでしたのでね」
「園長は午前中なにをしていられたのです」
「八時半に出勤せられると、直ぐに園内を一巡《いちじゅん》せられますが、先ず一時間|懸《かか》ります。それから十一時前ぐらい迄は事務を執《と》って、それから再び園内を廻られますが、そのときは何処ということなしに、朝のうちに気がつかれた檻《おり》へ行って、動物の面倒をごらんになります。失踪《しっそう》されたあの日も、このプログラムに別に大した変化は無かったようです」
「その日は、どの動物の面倒を見られるか、それについてお話はありませんでしたか」
「ありませんでしたね」
「園長を最後に見たという人は、誰でした」
「さあ、それは先刻《さっき》警察の方が来られて調べてゆかれたので、私も聞いていましたが、一人は爬虫館《はちゅうかん》の研究員の鴨田兎三夫《かもだとみお》という理学士医学士、もう一人は小禽暖室《しょうきんだんしつ》の畜養《ちくよう》主任の椋島二郎《むくじまじろう》という者、この二人です。ところが両人が園長を見掛けたという時刻が、殆んど同じことで、いずれも十一時二十分頃だというのです。どっちも、園長は入って来られて二三分、注意を与えて行かれたそうですが、其《そ》の儘《まま》出てゆかれたそうです」
「その爬虫館と小禽暖室との距離は?」
「あとで御案内いたしますが、二十間ほど距《へだた》った隣り同士です。もっとも其の間に挟《はさま》ってずっと奥に引込んだところに、調餌室《ちょうじしつ》という建物がありますが、これは動物に与える食物を調理したり蔵《しま》って置いたりするところなんです。鳥渡《ちょっと》図面を描いてみますと、こんな工合です」
 そういって西郷理学士は、鉛筆をとりあげると、爬虫館附近の見取図を描いてみせた。
「この二十間の空地《あきち》には何もありませんか」
「いえ、桐《きり》の木が十二本ほど植《うわ》っています」
「その調理室へ園長は顔を出されなかったんでしょうか」
「今朝の調べのときには、園長は入って来られなかったと云っていました」
「それは誰方《どなた》が云ったんです」
「畜養員《ちくよういん》の北外星吉《きたとせいきち》という主任です」
「園長がいよいよ行方不明《ゆくえふめい》と
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