嫌疑薄弱《けんぎはくじゃく》な西郷まで疑うのは、探偵上の恐しい無限地獄へ落ちこんだようにも思われた。園長令嬢トシ子の言葉としても、副園長を疑うことは申訳なかった。でも疑えば、トシ子は鴨田のことを爪の尖《さき》ほども言わず、却《かえ》って西郷のことを弁明した。これは西郷の愛に酬《むく》うことができなかったので自《みずか》ら弁解をつとめて償《つぐな》いをし、一方鴨田との愛の問題はもう解決を見ているので一言も云わなかったと考えてはどうか。いよいよ縺《もつ》れ糸のように乱れてくる帆村の足許《あしもと》に、事件解決の鍵かと思われる物が転がっていた。それは一個の釦《ボタン》だった。
「おお、これは園長の洋服についていた釦に違いない。どうしてこんなところに在るのだろう」
帆村は兼《か》ねて園長の遺《のこ》していった上衣の釦《ボタン》の特徴を手帳に書き留めて置いたことが役立って大変好運だと思った。それにしても釦を拾った場所というのが、調餌室の直ぐ前の、桐《きり》の木材との間に挟《はさま》った路面だったので、これでは調餌室の人達について一応嫌疑をかけてみないわけにはゆかない。いや、ひょっとすると、爬虫館前に落ちていたという園長の万年筆もこの釦と殆んど同時に落ちたものと認定すると、これは園長の身体を搬《はこ》んで行った経路を自《おのずか》ら語っていることになりはしないであろうか。恐らく万年筆が最初に落ちて、次にチョッキの釦と思うものが落ちたと考えていいであろう。園長の身体は、爬虫館の前から調餌室へ搬ばれたと考えていいであろう。
だが、どうして人目につかず搬んで行けたかということが次の疑問だった。それが出来たとすると、特殊の状況が必要だったことになる。白昼下《はくちゅうか》では、その時、幸《さいわ》いにも観覧人も少く畜養員や園丁も現場《げんじょう》に居合わせなかったというとき、又夜間なれば、これは極《きわ》めて容易に行われる。しかし万年筆は園長失踪の日に発見されたのだから、搬《はこ》ばれたのは夜間になる以前だといわなければならない。しかも十一時二十分頃までは園長を見掛けたという人があるのだから、正午《ひる》になれば園長は食事のため事務所へ帰って行った筈で、それが無かったとすると、どうしても失踪は十一時二十分から正午の間と断定するのが常識のように思う。コースは調餌室から爬虫館ではなくて、反対に爬虫館から調餌室へと考えられる。そこで帆村は、爬虫館の鴨田研究員が十一時三十五分前後に、調餌室の前へトラックが到着して動物の餌を搬びこんでいるらしい騒ぎを聴いたということを思い出した。すると犯行は、この前か後か。――帆村は調餌室の内部にも多分の疑問|符号《ふごう》が秘められていることも考えないわけにはゆかなかった。
西郷理学士と一緒に調餌室に入ってみると、帆村は思わず「呀《あ》ッ」と叫びたいくらいだった。塀の外で調餌室を想像しているのと、こうやって大きな俎上《そじょう》に、血のタラタラ滲《にじ》みでそうな馬肉《ばにく》の塊《かたまり》を見るのとでは、まるっきり調餌室というものの実感が違った。壁には、象を料理するのじゃないかと思うほどの大鉞《おおまさかり》や大鋸《おおのこぎり》、さては小さい青竜刀《せいりゅうとう》ほどもある肉切庖丁《にくきりほうちょう》などが、燦爛《さんらん》たる光輝《ひかり》を放って掛っていた。倉庫には竪《たて》半分に立ち割った馬の裸身《はだかみ》や、ダラリと長い耳を下げた兎《うさぎ》の籠《かご》などが目についた。
この物凄い光景を見た瞬間、帆村の頭脳《あたま》の中に電光のように閃《ひらめ》いた幻影《げんえい》があった。それは、園長の死体が調餌室に搬ばれたと見る間に、料理人が壁から大きな肉切庖丁を下《おろ》して、サッと死体を截断《せつだん》する。そして駭《おどろ》くべき熟練をもって、胸の肉、臀部《でんぶ》の肉、脚の肉、腕の肉と截り分け、運搬車に載せると、ライオンだの虎だの檻の前へ直行して、園長の肉を投げ込んでやる。……いや、恐《おそろ》しいことである。
「これが、調餌室の主任、北外星吉《きたとせいきち》氏です」西郷副園長が、ゴム毬《まり》のように肥《こ》えた男を紹介した。
「やあ、帆村さんですか」北外畜養員はニコヤカに笑った。
「貴方《あなた》のお名前は兼《か》ねてよく知っていましたよ。今度の事件はまるで、貴方に挑戦しているようなもので、実にうってつけの大事件ですなア」
帆村はこの機嫌のいい、しかし何だかひやかされているような気がしないでもない北外の挨拶に対して、頓《とみ》に言うべき言葉もなかった。しかし此《こ》のまんまるく太った子供の相撲取《すもうとり》のような男の顔を見ていると、彼が悪事を企図《たくら》むような種類の人間だとは思え
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