解剖室からすこし離れたところに、麻雀卓《マージャンたく》をすこし高くしたようなものがあって、その上に寒餅《かんもち》を漬《つ》けるのに良さそうな壺《つぼ》が載せてあった。
「こんなものがある!」
「なんだろう。……オッ、明かないぞ」
 捜査隊員はその壺を見つけて、グルリと取巻いた。床の上に下ろして、開けようとするが、見掛けによらず、蓋がきつく閉まっていて、なかなか開かない。
「そんな壺なんか、後廻しにし給え」と部長らしいのが云った。刑事たちは、その言葉を聞いて、また四方《しほう》に散った。壺は床の上に抛《ほう》り出されたままだった。
「どうも見つからん。これア犯人は逃げたのですぜ」
 彼等はたしかにあたしたち夫婦を探しているものらしい。あたしは何とかして、此処《ここ》にいることを知らせたかったが、重い鎖につながれた俘囚は天井裏の鼠ほどの音も出すことが出来なかった。そのうちに一行は見る見るうちに室を出ていって、あとはヒッソリ閑《かん》として機会は逃げてしまったのだ。
 それにしても、夫は何処に行ったのだろう。
「オヤ、なんだろう?」あたしはそのとき、下の部屋に、なにか物の蠢《うごめ》く気配を感じた。
 と、いきなりカタカタと、揺《ゆ》れだしたものがあった。
「あッ。壺だ!」
 卓子《テーブル》の上から、床の上に下ろされた壺が、まるで中に生きものが入っているかのように、さも焦《じ》れったそうに揺れている。何か、入っているのだろうか。入っているとすると、猫か、小犬か、それとも椰子蟹《やしがに》ででもあろうか。いよいよこの家は、化物屋敷になったと思い、カタカタ揺り動く壺を、楽しく眺め暮した。なにしろ、それは近頃にない珍らしい活動玩具《かつどうおもちゃ》だったから。その日も暮れて、また次の日になった。壺は少し勢《いきおい》を減《げん》じたと思われたが、それでも昨日と同じ様に、ときどきカタカタと滑稽《こっけい》な身振《みぶり》で揺らいだ。
 夫はもう帰って来そうなものと思われるのに、どうしたものか、なかなか姿を見せなかった。あたしはお腹《なか》が空いて、たまらなくなった。もう自分の身体のことも気にならなくなった。ただ一杯のスープに、あたしの焦燥《しょうそう》が集った。
 四日目、五日目。あたしはもう頭をあげる力もない。壺はもう全く動かない。そうして遂に七日目が来た。時間のことは判らないが、不図《ふと》下の部屋がカタカタする音に気がついて例の覗《のぞ》き穴から見下ろすと、この前に来たように一隊の警官隊が集っていた。その中でこの前に見かけなかったような一人のキビキビした背広の男が一同の前になにか云っていた。
「……博士は、絶対に、この部屋から出ていません。私はこの前に一緒に来ればよかったと思います。多分もう手遅れになったような気がします。あの××銀行の、入口の厳重に閉った金庫室へ忍びこんだのもたしかに博士だったのです。そういうと変に思われるでしょうが、実は博士は僅か十五センチの直径の送風パイプの中から、あの部屋に侵入したのです」
「それア理窟に合わないよ、帆村《ほむら》君」と部長らしいのが横合から叫んだ。「あの大きな博士の身体が、あんな細いパイプの中に入るなどと考えるのは、滑稽すぎて言葉がない」
「ではいまその滑稽をお取消し願うために、博士の身体を皆さんの前にお目にかけましょう」
「ナニ博士の在所《ありか》が判っているのか。一体どこに居るのだ」
「この中ですよ」
 帆村は腰を曲げて、足許の壺《つぼ》を指《ゆびさ》した。警官たちは、あまりの馬鹿馬鹿しさに、ドッと声をあげて笑った。
 帆村は別に怒りもせず、壺に手をかけて、逆にしたり、蓋をいじったりしていたが、やがて、恭々《うやうや》しく壺に一礼をすると、手にしていた大きいハンマーで、ポカリと壺の胴中《どうなか》を叩き割った。中からは黄色い枕のようなものがゴロリと転《ころが》り出た。
「これが我が国外科の最高権威、室戸博士の餓死屍体《がししたい》です!」
 あまりのことに、人々は思わず顔を背《そむ》けた。なんという人体だ。顔は一方から殺《そ》いだようになり、肩には僅かに骨の一部が隆起《りゅうき》し、胸は左半分だけ、腹は臍《へそ》の上あたりで切れている。手も足も全く見えない。人形の壊《こわ》れたのにも、こんなにまで無惨《むざん》な姿をしたものは無いだろう。
「みなさん。これは博士の論文にある人間の最小整理形体《さいしょうせいりけいたい》です。つまり二つある肺は一つにし、胃袋は取り去って腸《ちょう》に接ぐという風に、極度の肉体整理を行ったものです。こうすれば、頭脳は普通の人間の二十倍もの働きをすることになるそうで、博士はその研究を自らの肉体に試《こころ》みられたのです」
 人々は唖然《あぜん》として、
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