なに油汗《あぶらあせ》を流してみても、身体が通りゃしない。それだのに犯人の入った証拠は、歴然《れきぜん》としているのだ。こんな奇妙なことがあるだろうか」
「現金は沢山盗まれたの?」
「うん、三万円ばかりさ。――こんな可笑《おか》しなことはないというので、記事は禁止で、われわれ行員が全部疑われていたんだ。僕もお蔭で禁足《きんそく》を喰《くら》ったばかりか、とうとう一泊させられてしまった。ひどい目に遭《あ》ったよ」
松永は、ポケットの中から、一本の煙草を出して、うまそうに吸った。
「変な事件ネ」
「全く変だ。探偵でなくとも、あの現場の光景は考えさせられるよ。入口のない部屋で、白昼のうちに巨額の金が盗まれたり、人が殺されたりしている」
「その番人は、どんな風に殺されているんでしょ」
「胸から腹へかけて、長く続いた細いメスの跡がある、それが変な風に灼《や》けている。一見|古疵《ふるきず》のようだが、古疵ではない」
「まア、――どうしたんでしょうネ」
「ところが解剖の結果、もっとエライことが判ったんだよ。駭《おどろ》くべきことは、その奇妙な古疵よりも、むしろその疵の下にあった。というわけは、腹を裂いてみると、駭くじゃあないか、あの番人の肺臓もなければ、心臓も胃袋も腸も無い。臓器という臓器が、すっかり紛失していたのだ。そんな意外なことが又とあるだろうか」
「まア、――」とあたしは云ったものの、変な感じがした。あたしはそこで当然思い出すべきものを思い出して、ゾッとしたのだ。
「しかし、その奇妙な臓器紛失が、検束《けんそく》されていた僕たち社員を救ってくれることになった、僕たちが手を下したものでないことが、その奇妙な犯罪から、逆に証明されたのだ」
「というと……」
「つまり、人間の這入るべき入口の無い金庫室に忍びこんだ奴が、三万円を奪った揚句《あげく》、番人の臓器まで盗んで行ったに違いないということになったのさ。無論、どっちを先にやったのかは知らないが……」
「思い切った結論じゃないの。そんなこと、有り得るかしら」
「なんとかいう名探偵が、その結論を出したのだ。捜査課の連中も、それを取った。尤《もっと》も結論が出たって、事件は急には解けまいと思うけれどネ。ああ併《しか》し、恐ろしいことをやる人間が有るものだ」
「もう止しましょう、そんな話は……。あんたがあたしのところへ帰って来てくれれば、外に云うことはないわ。……縁起直《えんぎなお》しに、いま古い葡萄酒でも持ってくるわ」
あたしたちは、それから口あたりのいい洋酒の盃を重ねていった。お酒の力が、一切の暗い気持を追払《おいはら》ってくれた。全く有難いと思った。――そしてまだ宵《よい》のうちだったけれど、あたしたちはカーテンを下ろして、寝ることにした。
その夜は、すっかり熟睡した。松永が帰って来た安心と、連日の疲労とが、お酒の力で和《やわら》かに溶け合い、あたしを泥のように熟睡させたのだった。……
――翌朝、気のついたときは、もうすっかり明け放たれていた。よく睡ったものだ。あたしは全身的に、元気を恢復した。
「オヤ、――」
隣に並んで寝ていたと思った松永の姿が、ベッドの上にも、それから室内にも見えない。
庭でも散歩しているのじゃないかと思って、暫く待っていたけれど、一向彼の跫音《あしおと》はしなかった。
「もう出掛けたのかしら……」今日は休むといっていたのに、と思いながら卓子《テーブル》の上を見ると、そこに見慣れない四角い封筒が載っているのを発見した。あたしはハッと胸を衝《つ》かれたように感じた。
しかし手をのばして、その置き手紙を開くまでは、それほどまで大きい驚愕が隠されているとは気がつかなかった。ああ、あの置き手紙! それは松永の筆蹟に違いなかったけれど、その走り書きのペンの跡は地震計の針のように震《ふる》え、やっと次のような文面を判読することが出来たほどだった。
「愛する魚子よ、――
僕は神に見捨てられてしまった。かけがえのない大きな幸福を、棒に振ってしまわなければならなくなった。魚子よ、僕はもう再び君の前に、姿を現わすことが出来なくなった。ああ、その訳は……?
魚子よ、君は用心しなければいけない。あの銀行の金庫を襲った不思議の犯人は、世にも恐ろしい奴だ。彼奴《あいつ》の真《まこと》の目標は、ひょっとすると、此の僕にあったのではないかと考える。僕は……僕は今や真実を書き残して、愛する君に伝える。――僕は夜のうちに、あの隆々《りゅうりゅう》たる鼻と、キリリと引締っていた唇と(自分のものを褒《ほ》めることを嗤《わら》わないで呉れ、これが本当に褒め納《おさ》めなのだから)――僕はその鼻と唇とを失ってしまった。夜中に不図《ふと》眼が醒《さ》めて、なんとなく変な気持なので、起き出した
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