ている。その角を直角に右に曲る。――プーンと、きつい薬剤《やくざい》の匂いが流れて来た。夫の実験室は、もうすぐ其所《そこ》だ。
 夫の部屋の前に立って、あたしは、コツコツと扉《ドア》を叩いた。――返事はない。
 無くても構《かま》わない。ハンドルをぎゅっと廻すと、扉は苦もなく開いた。夫は、あたしの訪問することなどを、全然予期していないのだ。だから扉々《とびらとびら》には、鍵もなにも掛っていない。あたしは、アルコール漬《づけ》の標本壜《ひょうほんびん》の並ぶ棚《たな》の間をすりぬけて、ズンズン奥へ入っていった。
 一番奥の解剖室《かいぼうしつ》の中で、ガチャリと金属の器具が触れ合う物音がした。ああ、解剖室! それは、あたしの一番|苦手《にがて》の部屋であったけれど……。
 扉《ドア》を開けてみると、一段と低くなった解剖室の土間に、果して夫の姿を見出した。
 解剖台の上に、半身を前屈《まえかが》みにして、屍体をいじりまわしていた夫は、ハッと面《おもて》をあげた。白い手術帽と、大きいマスクの間から、ギョロとした眼だけが見える。困惑《こんわく》の目の色がだんだんと憤怒《ふんぬ》の光を帯《お》びてきた。だが、今夜はそんなことで駭《おどろ》くようなあたしじゃない。
「裏庭で、変な呻《うな》り声がしますのよ。そしてなんだかチカチカ光り物が見えますわ。気味が悪くて、寝られませんの。ちょっと見て下さらない」
「う、うーッ」と夫は獣《けもの》のように呻った。「くッ、下らないことを云うな。そんなことア無い」
「いえ本当でございますよ。あれは屹度《きっと》、あの空井戸《からいど》からでございますわ。あなたがお悪いんですわ。由緒《ゆいしょ》ある井戸をあんな風にお使いになったりして……」
 空井戸というのは、奥庭にある。古い由緒も、非常識な夫の手にかかっては、解剖のあとの屑骨《くずぼね》などを抛《な》げこんで置く地中の屑箱にしか過ぎなかった。底はウンと深かったので、ちょっとやそっと屑を抛げこんでも、一向に底が浮き上ってこなかった。
「だッ黙れ。……明日になったら、見てやる」
「明日では困ります。只今、ちょっとお探りなすって下さいませんか。さもないと、あたくしはこれから警察に参り、あの井戸まで出張して頂《いただ》くようにお願いいたしますわ」
「待ちなさい」と夫の声が慄《ふる》えた。「見てやらない
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