懼れていますって声よ」
「とにかく、博士を怒らせることはよくないと思うよ。事を荒立《あらだ》てちゃ損だ。平和工作を十分にして置いて、その下で吾々《われわれ》は楽しい時間を送りたいんだ。今夜あたり早く帰って、博士の首玉《くびったま》に君のその白い腕を捲《ま》きつけるといいんだがナ」
彼の云っている言葉の中には、確かにあたしの夫への恐怖が窺《うかが》われる。青年松永は子供だ。そして偶像崇拝家《ぐうぞうすうはいか》だ。あたしの夫が、博士であり、そして十何年もこの方、研究室に閉じ籠って研究ばかりしているところに一方ならぬ圧力を感じているのだ。博士がなんだい。あたしから見れば、夫なんて紙人形に等しいお馬鹿さんだ。お馬鹿さんでなければ、あんなに昼となく夜となく、研究室で屍体《したい》ばかりをいじって暮せるものではない。その癖《くせ》、この三四年こっち、夫は私の肉体に指一本触った事がないのだ。
あたしは、前から持っていた心配を、此処《ここ》にまた苦《にが》く思い出さねばならなかった。
(この調子で行くと、この青年は屹度《きっと》、私から離れてゆこうとするに違いない!)
きっと離れてゆくだろう。ああ、それこそ大変だ。そうなっては、あたしは生きてゆく力を失ってしまうだろう。松永無くして、私の生活がなんの一日だってあるものか。――こうなっては、最後の切り札を投げるより外《ほか》に途《みち》がない。おお、その最後の切り札!
「ねえ。――」とあたしは彼の身体をひっぱった。「ちょいと耳をお貸しよ」
「?」
「あたしがこれから云うことを聴いて、大きな声を出しちゃいやアよ」
彼は怪訝《けげん》な顔をして、あたしの方に耳をさしだした。
「いいこと!――」グッと声を落として、彼の耳の穴に吹きこんだ。「あんたのために、あたし、今夜うちの人を殺してしまうわよ!」
「えッ?」
これを聴いた松永は、あたしの腕の中に、ピーンと四肢を強直させた。なんて意気地《いくじ》なしなんだろう、二十七にもなっている癖に……。
邸内《ていない》は、底知れぬ闇の中に沈んでいた。
(お誂《あつら》え向きだわ!)今宵《こんや》は夜もすがら月が無い。
トントンと、長い廊下の上に、あたしの跫音《あしおと》がイヤに高く響く。薄ぐらい廊下灯《ろうかあかり》が、蜘蛛《くも》の巣《す》だらけの天井《てんじょう》に、ポッツリ点い
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