ゃ、いってらっしゃい。夕方には、早く帰ってくるのよ」
 彼は膨《は》れぼったい眼を気にしながら出ていった。
 使用人の居ないこの広い邸宅は、まるで化物屋敷のように、静まりかえっていた。一週に一度は、派出婦がやって来て、食料品を補《おぎな》ったり、洗い物を受けとったりして行くのが例だった。いつまで寝ていようと、もう気儘《きまま》一杯にできる身の上になった。呼びつけては、気短かに用事を怒鳴《どな》りつける夫も居なくなった。だからいつまでもベッドの上に睡っていればよかったのであるが、どういうものか落付いて寝ていられなかった。
 あたしは、ちぐはぐな気持で、とうとうベッドから起き出でた。着物を着かえて鏡に向った。蒼白い顔、血走った眼、カサカサに乾いた唇――
(お前は、夫殺しをした!)
 あたしは、云わでもの言葉を、鏡の中の顔に投げつけた。おお、殺人者! あたしは取返しのつかない事をしてしまったのだ。窓の向うに見える井戸の中に、夫の肉体は崩れてゆくだろう。彼にはもう二度と、この土の上に立ち上る力は無くなってしまったのだ。鉛筆の芯が折れたように、彼の生活はプツリと切断してしまったのだ。彼の研究も、かれの家族も(あたし独りがその家族だった)それから彼の財産も、すべて夫の手を離れてしまった。彼は今日まで、すっかり無駄働きをしたようなものだ。そんなことをさせたのは、一体誰の罪だ。殺したのは、あたしだ。しかし殺させるように導いたのは夫自身だったじゃないか。他の男のところへ嫁《とつ》いでいれば、人殺しなどをせずに済んだにちがいない。あたしの不運が人殺しをさせたのだ。といって人殺しをしたのは此の手である。この鏡に写っている女である。もう拭《ぬぐ》っても拭い切れない。あたしの肉体には、夫殺しの文字が大きな痣《あざ》になっているのに違いない。誰がそれを見付けないでいるものか。じわりじわりと司直《しちょく》の手が、あたしの膚《はだ》に迫ってくるのが感じられる。
(ああ、こんな厭《いや》な気持になるのだったら、夫を殺すのではなかった!)
 押しよせてくる不安に、あたしはもう堪《た》えられなくなった。なにか救《すく》いの手を伸《の》べてくれるものは無いか。
「そうだ、有る有る。お金だ。夫の残していった金だ。それを探そう!」
 いつか夫が、莫大《ばくだい》な紙幣《さつ》の札を数えているところへ、入って
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