た。聴衆の間からは、溜《た》め息《いき》が聞えた。つづいて嵐のような拍手が起ったが、聖者はそれに答えるでもなく、席についたまま石のように動かず、目を閉じたまま、ただ、とび出た高い鼻を、かぶりものの布がかるく叩いていた。どこからか風が舞台へ吹いて来るものと見える。
 さて、いよいよこれより治明博士一世一代の大芝居が始まることになった。果してうまく行くかどうか、千番に一番のかねあいだ。


   奇蹟《きせき》起る


 もう度胸をきめている治明博士だった。彼はまず聴衆に向って、これより聖者《せいじゃ》レザール氏をわずらわして心霊実験を行うとアナウンスし、
「但し、聖者のおつとめはかなり忙しく、こうしているうちにも多数の心霊の訪問を受けて一々|応待《おうたい》しなければならないので、只今すぐに実験をお願いして、即座にそれが諸君の前に行われるかどうか疑問である。聖者のおつとめの合間をつかむことができたら、諸君は運よく実験を見ることができるわけだ。その点よく御了解《ごりょうかい》を得たい」
 と、巧みにことわりを述べて、伏線《ふくせん》とした。
「それでは、まず第一番として、聖者にお願いして、私の肉体と私の霊魂とを分離して頂くことにします」
 博士はついに、こういって、実験を始めたのである。これは実は、博士が修業によって会得《えとく》して来た術であって、なにも聖者をわずらわさなくとも、博士ひとりで出来ることであった。博士としては、これだけは確実に来会者をはっきりおどろかせることが出来る自信があり、これさえ成功するなら、あとの実験はたとえことごとく失敗に終っても、申訳《もうしわけ》がつくと考えていた。
 そこで博士は、うやうやしく壇《だん》の前にいって礼拝をし、それから立上った。博士の考えでは、それから聖者に後向きとなって聴衆の方を向いて座し、それから肉体と心霊の分離術《ぶんりじゅつ》に入るつもりだった。
 ところが、博士の思ってもいないことが、そのときに起った。
 というのは、壇上《だんじょう》の聖者レザールが、博士に向って手を振りだしたのである。
「汝《なんじ》は下がれ。あちらに下がれ」
 レザールは舞台の下手を指した。
 博士はおどろいた。隆夫がなにをいい出したやらと、びっくりした。しかも「汝《なんじ》は下がれ」といったのはギリシア語だったではないか。隆夫がギリシア語を知っているとは今まで思ったこともなかった。
「お前は、だまって、じっと黙っているがいいよ。あとはわしがうまくやるから」
 と、治明博士は近づいて、それをいおうとしたのだ。ところがどうしたわけか、博士は声が出せなかった。そして全身がかッとなり、じめじめと汗がわき出でた。
「汝は、しずかに、見ているがよい」
 レザールは重ねていった。
 と、博士は何者かに両脇《りょうわき》から抱《かか》えあげられたようになり、自分の心に反して、ふらふらと舞台を下手へ下がっていった。そしてそこにおいてあった椅子の一つへ、腰を下ろしてしまった。
 来会者席からは、しわぶき一つ聞えなかった。みんな緊張《きんちょう》の絶頂《ぜっちょう》にあったのだ。誰もみな――治明博士だけは例外として――聖者レザールが厳粛《げんしゅく》な心霊実験を始めたのだと思っていたのだ。このとき、舞台裏で、例の奇妙な楽器が鳴りだした。恨《うら》むような、泣くような、腸《ちょう》の千切《ちぎ》れるような哀調《あいちょう》をおびた楽の音であった。来会者の中には、首すじがぞっと寒くなり、思わず襟《えり》をかきあわす者もいた。
 今や場内は異様《いよう》な妖気《ようき》に包まれてしまった。これが東京のまん中であるとは、どうしても考えられなかった。
 そのとき、来会者《らいかいしゃ》がざわめいた。
 階下の正面の席から、ぬっと立ち上った青年がいた。その青年は、ふらふらと前に歩きだしたのだ。近くの席の者は見た。その青年の目は閉じていたことを。
 青年はまっすぐに歩きつづけたので、ついに舞台の下まで行きついた。そこで行きどまりとなったと思ったら、青年の身体がすーッと煙のように上にのぼった。あれよあれよと見るうちに、青年は舞台の上に自分の足をつけていた。
 来会者席《らいかいしゃせき》は、ふたたび氷のような静けさに返った。今見たふしぎな現象について、適確な解釈を持つひまもなく、次の奇蹟が待たれるのであった。かの青年は、亡霊《ぼうれい》の如くすり足をして、聖者の席に近づきつつあった。
 このときの治明博士の焦燥《しょうそう》と驚愕《きょうがく》とは、たとえるもののないほどはげしかった。彼は席から立って、舞台のまん中へとんでいきたかった。だが、どういうわけか、彼の全身はしびれてしまって、立つことができなかった。そのうちに彼は、重大な発見に、
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