知っているとは今まで思ったこともなかった。
「お前は、だまって、じっと黙っているがいいよ。あとはわしがうまくやるから」
と、治明博士は近づいて、それをいおうとしたのだ。ところがどうしたわけか、博士は声が出せなかった。そして全身がかッとなり、じめじめと汗がわき出でた。
「汝は、しずかに、見ているがよい」
レザールは重ねていった。
と、博士は何者かに両脇《りょうわき》から抱《かか》えあげられたようになり、自分の心に反して、ふらふらと舞台を下手へ下がっていった。そしてそこにおいてあった椅子の一つへ、腰を下ろしてしまった。
来会者席からは、しわぶき一つ聞えなかった。みんな緊張《きんちょう》の絶頂《ぜっちょう》にあったのだ。誰もみな――治明博士だけは例外として――聖者レザールが厳粛《げんしゅく》な心霊実験を始めたのだと思っていたのだ。このとき、舞台裏で、例の奇妙な楽器が鳴りだした。恨《うら》むような、泣くような、腸《ちょう》の千切《ちぎ》れるような哀調《あいちょう》をおびた楽の音であった。来会者の中には、首すじがぞっと寒くなり、思わず襟《えり》をかきあわす者もいた。
今や場内は異様《いよう》な妖気《ようき》に包まれてしまった。これが東京のまん中であるとは、どうしても考えられなかった。
そのとき、来会者《らいかいしゃ》がざわめいた。
階下の正面の席から、ぬっと立ち上った青年がいた。その青年は、ふらふらと前に歩きだしたのだ。近くの席の者は見た。その青年の目は閉じていたことを。
青年はまっすぐに歩きつづけたので、ついに舞台の下まで行きついた。そこで行きどまりとなったと思ったら、青年の身体がすーッと煙のように上にのぼった。あれよあれよと見るうちに、青年は舞台の上に自分の足をつけていた。
来会者席《らいかいしゃせき》は、ふたたび氷のような静けさに返った。今見たふしぎな現象について、適確な解釈を持つひまもなく、次の奇蹟が待たれるのであった。かの青年は、亡霊《ぼうれい》の如くすり足をして、聖者の席に近づきつつあった。
このときの治明博士の焦燥《しょうそう》と驚愕《きょうがく》とは、たとえるもののないほどはげしかった。彼は席から立って、舞台のまん中へとんでいきたかった。だが、どういうわけか、彼の全身はしびれてしまって、立つことができなかった。そのうちに彼は、重大な発見に、
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