く》がなくなってね、そのうえにあの世界でいろいろな邪悪《あく》に染《そ》まって、それを洗いおとすために、それはそれはひどい苦しみをくりかえすのだ。僕はとても長くはそれを見守っていられなかった……」
「もう、たくさんよ、そのお話は。そのようなことは、あたくしも知っていますし、そしていくども考えても見ましたの。その結果、あたくしの心は決ったんです。どうしても、行って見たい。肉体を自分のものにしたい。二度以上はともかくも、一度はぜひそうなってみたい。あなたがあたくしのために親切にながながといって下さったのはうれしいのですけれど、あたくしは、今目の前に流れて来ている絶好の機会をつかまないでいられないのです」
「ああ、それがあぶないんだ。僕は何十ぺんでも何百ぺんでも、君をひきとめる」
「どういったら、あなたはあたくしの気持を分って下さるでしょうか。じれったいわ」
「僕はどうあっても――」
「あ、ちょっと黙って……あ、そうだ。ええ、行きますとも。あたくしも。誰がこの絶好の機会をのがすものですか」
「お待ちなさい。あなたは、だまされているんだ。苦しみだけが待っている世界へ、あなたはなぜ行くのですか。……ああ、とうとう行ってしまった」
 男の声は、気の毒なほど絶望のひびきを持っていた。女の声は、それからあと、いくら待っても聞かれなかった。いや、男の声も、それっ切りで終った。
 隆夫は、今の会話の途中から、二人の会話がとなりの実験室の天井にとりつけてある高声器から出てくるものであることに気がついていた。
 なぜか理由はわからないが、さっきはあれほど不明瞭《ふめいりょう》だった音声が、目のさめたときから急に明瞭になったらしい。またその音声もずっと大きくなった。大きく、明瞭な話し声になったので、自分は目がさめたんだなと、隆夫は気がついた。
 念のために彼は、寝台から下りて、となりの実験室へいってみた。
 天井の高声器は、ちゃんと働いていた。もちろん音声は出ていないが、小さくがりがりと音がしていて、働いているのが知れた。
「ふしぎだ。ふしぎな会話だ。いったいどこの誰と誰との会話なんだろうか。まさか、あれが放送のドラマの一部だとは思われない。放送なら、あのあとにアナウンスがあるはずだし、あんな場面なら伴奏《ばんそう》がなくてはならないはず」
 この疑問は、すぐには解けなかった。
 やがて夜明
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