「どうだね。だんだんと変ってくる海峡の有様が分るかね」
 と牧山大佐は沈黙を破って云った。
「ああ、分るです。これはボゴビ町とラザレフ岬との間に大きな堰堤《ダム》を作っているんじゃありませんか」
「その通りだ。海峡の水を止めてしまおうというのだ。その規模の大きなことは、いまだかつて聞いたことはない。昔エジプトで、スフィンクスやピラミッドを作ったのが人間のやった土木工事で一番大きなものだったが、そのレコードはこのボゴビ町とラザレフ岬とを連《つら》ねる堰堤《ダム》工事で破ってしまったわけだ。もっとも現代の科学力をもってすれば、こんなことなんかピラミッドの工事よりもやさしいのかも知れない」
「大佐どの。なぜこんなところを埋めるのでしょう。軍事上どんな役に立つのです」
「さあそれは……」と牧山大佐は腕組をして「海水の干満によって水準の変るのを利用し、高い方から海水を低い方に流して、水力発電するためだといっている。しかしそれが問題じゃ。君が持って来た密書を見るまでは水力発電説も相当有力だと思っていたがいまはそうじゃない。そいつは全然思い違いだった」
 といって大佐は感慨深そうに左右に頭を振った。
「すると、この堰堤《ダム》工事はどんな目的をもっているのですか。どうか話をして下さい」
「まあ待ちたまえ。いまはまだ話をする時期になっていない」と大佐は帆村を静かに押しとどめ「それよりも君が持って来た密書を大いに生かすことが先決問題だ。ことに相手が『右足のない梟《ふくろう》』であって見れば、これは全く油断のならないことだ」
「ほほう」と帆村は目を丸くして「すると大佐どのは、前から『右足のない梟』を御存じなのですか」
「もちろん知っている。あの男と机を並べて勉強したこともあったよ。×国きっての逸材《いつざい》だ。恐るべき頭脳と手腕の持ち主だ。かねて大警戒はしていたが、どうしてもその尻尾《しっぽ》をつかまえることが出来なかったのだ。こんど君が奪ってきてくれた密書こそ、実はわれわれがどんなにか待ちわびていた証拠書類でもあり、かつまた彼の使命の全貌を知らせてくれたこの上ない宝物だったのだ。イヤもっと話をしていたいが、先刻《さっき》もいったように、いまは愚図愚図している場合ではない。僕はちょっと出掛けるから、君はここに待っていたまえ」
「大佐どの、お出掛けなら、私も連れていっていただけませんか」
「いや、それは出来ない。しかしこれだけは約束をして置こう。なにか面白い行動を起すようなときには、君を必ず一緒に連れだってゆくから……」
 そう言い捨てて牧山大佐はそそくさと部屋を出ていった。帆村探偵は写真のある部屋にただひとり待っていた。思えば銀座の鋪道で偶然見た婦人の怪死事件から発して、かずかずの冒険をくりかえし、その結果、はからずも釣りあげた敵の密書から、いまや重大なる行動が起されようとしているのだ。一体なにごとが敵国の手で計画されているのだろう。あの二つの地点で、これから何が始まろうとしているのだ。空前の土木工事にはちがいないが、かの堰堤《ダム》はいかなる秘密を蔵《ぞう》しているのであろうか。
 帆村はずいぶん永く待たされた。既に食事を配給せられること二度、もう我慢がならぬから、辞去しようと思ったけれど、牧山大佐の言葉を信用して、もう少し待とうと頑張りつづけた。そして彼の焦躁《しょうそう》がどうにも待ちきれなくなり、遂に一大爆発をしようとした午後九時になって、廊下に跫音《あしおと》も荒々しく、待ちに待った牧山大佐がひどく興奮した面持をして這入《はい》ってきた。
「ああ、牧山さん。どうも待たせるじゃありませんか……」
「まあ我慢してくれたまえ。いずれ後から何もかも分るよ……。さあその代り、直ぐ出発だよ。行先は乗った上でないと云えないが、よかったら君も一緒に行かんか」
「なに出発ですか。……連れていって下さい。どこでも構いません。地獄の際涯《さいがい》でもどこでも恐れやしません。ぜひ連れてって下さい」
 帆村は莞爾《かんじ》として、牧山大佐のあとに随《したが》った。


   大団円


 牧山大佐が帆村探偵を自動車に乗せて案内した先は、帝都の郊外にある飛行場だった。車は真暗な場内の奥深く入って停ったが、そこには目の前に、夜光ペイントを塗った飛行機の胴体が鈍く光っていた。
「これは例の世界に誇る巨人爆撃機だな」
 と、帆村は早くもそれと察した。巨人爆撃機なら、時速は五百キロで、航続距離は二万キロ、爆薬は二十|噸《トン》積めるという世界に誇るべき優秀機だった。一行はすでに乗りこんでいたものと見え、帆村たちが乗りこむと直ぐ爆音をあげて滑走をはじめ、まもなく機体はフワリと宙に浮きあがった。
 巨人機はグングン上昇した。メートルもなにも見えないけれども、身体に感ずる圧力でそれと分った。その上昇がまだ続けられているときのことだったが、乗組の全員が頭にかけている受話器に警報が鳴りひびいた。
「国籍不明ノ快速飛行機ガ本機ヨリ一キロ後方ニ尾行《びこう》シテ来ル」
 本機を尾行している国籍不明の飛行機とは一体何者が操《あやつ》るものであるか。
「イマ尾行機内ヲ暗視機《あんしき》デ映写幕上ニ写シ出ス乗組員ニ注意!」
 と、続いて警報が聞えた。と、帆村の目の前に映写幕がスルスルと降りてくるが早いか、三人の男たちの顔がうつった。一人は操縦し、一人はラジオ器械を操り、一人はこっちの方を睨んでいた。その男の顔を見た帆村はハッとして、
「ああ『右足のない梟《ふくろう》』だ!」と叫んだ。
「うん、やっぱり彼奴《あいつ》が尾行してきおった。彼奴が仲間と連絡しないうちに早く片づけて置こうじゃないか」
 と牧山大佐は送話器の中へ怒鳴りこんだ。
「怪力線発射用意」
 と号令が響く。「撃てッ!」映写幕に映っていた「右足のない梟」外二名の男たちは俄《にわ》かに苦悶の表情を浮べた。とたんに横合から白煙が吹きつけると見る間に、焔《ほのお》がメラメラと燃えだした。そして三人の顔は太陽に解ける雪達磨《ゆきだるま》のようにトロトロと流れだした。それが最期だった。暗視機のレンズはチラチラと動きまわったが、そこには白煙の外、なにも空中には残っていなかった。
「敵ながら惜しい勇士じゃったが……これも已《や》むを得ん。わが軍の怪力線の煙と消えたので彼もすこしは本望じゃろう」
 そういって牧山大佐の声が受話器を通じて感慨無量《かんがいむりょう》といった顔をしている帆村の耳に響いた。
 それから巨人機は恐ろしいほどスピードを増して、時間にして五、六時間も飛行した、哨戒員《しょうかいいん》は暗視機で四方八方を睨み、敵機もし現れるならばと監視をゆるめなかった。機関砲の砲手は、砲架《ほうか》の前に緊張そのもののような顔をしていた。しかし其《その》後は何者も邪魔をするものが現われなかった。
「牧山大佐どの。もう行先だの目的だのを話して下すってもいいでしょう」
 と帆村は大佐の耳に口を寄せて云った。
「君の方がよく知ってるじゃないか」
「やはりベーリング海峡ですね」と帆村はズバリといった。「プリンス・オヴ・ウェールス岬とデジネフ岬のある中間でしょう」
「正《まさ》にそのとおり!」と大佐は帆村の手を固く握った。
 そういっているところへ、受話器に警報が入ってきた。
「先刻マデ刻々低下シツツアッタ気温ガ、逆ニ徐々ニ上昇ヲ始メタ。コノ気温異常上昇ハ既ニ地方気象統計ニヨル記録ヲ破壊シ、イマヤ驚異的新記録ヲ示シ、シカモ刻々|自《みずか》ラソノ記録ヲ破リツツアリ」
 牧山大佐は意味あり気に帆村の肩をドンと叩いた。どうだ、これでも分らぬかという風に……。
「ベーリング海峡ガ、望遠暗視機ニ感受シ始メタ。映写幕ヲ注視!」
 映写幕といわれて、その上を見ると、なるほどベーリング海峡らしいものがうつっている。両方から象の鼻のように出ているのはウェールス岬とデジネフ岬にちがいない。ああ、しかもその両者を連ねるものは、満々たる海水にも浮氷にもあらで、これは城壁のように聳《そび》えたった立派な大堰堤《だいせきてい》だった。
「分った!」と帆村は叫んだ。「ベーリング海峡の海水を堰《せ》きとめると、そこから南の地方が暖流のために、俄《にわ》かに温くなるのだ。いままで寒帯だった地方が温帯に化けるのだ。そこで俄然《がぜん》その宏大な地方を根拠地として某国の活溌な軍事行動が疾風迅雷《しっぷうじんらい》的に起されようとしているのだ。うっかり油断をしていたが最後、悔《く》いて帰らぬ破滅が来るばかりだった。ああ戦慄《せんりつ》すべき大計画! あのとき密書が自分の手に入らなかったら……」
 帆村は慄然《りつぜん》として、隣席の牧山大佐を顧《かえり》みた。しかし大佐の姿は、もうそこにはなかった。その代り受話器の中から儼然《げんぜん》たる号令が聞えてきた。
「総員、配置につけッ!」



底本:「海野十三全集 第4巻 十八時の音楽浴」三一書房
   1989(平成元)年7月15日第1版第1刷発行
初出:「つはもの」
   1934(昭和9)年〜1935(昭和10)年頃
※底本は、表題の「間諜」に「スパイ」とルビをふっています。
入力:tatsuki
校正:まや
2005年5月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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