帆村探偵はこれを P《ピー》. R《アール》. WALES《ウェールス》[#「WALES」は底本では「WALE S」] と読んだ。
「デジネフ。それからピー、アール、ウェールス?」
 なんのことだろう。人の名前のようでもある。――帆村はもうこの階段に用がなかった。これから用のあるのは百科事典だった。彼は元気百倍して、そこに通りかかった円タクを呼びとめると都の西北W大学の図書館へ急がせた。
 夜が明けたばかりのことで、宿直員は蒲団《ふとん》を頭から被ってグウグウ睡っていたが、彼はこんなときに役に立つとは思わず貰って置いた総長T博士の紹介状を示して、急用のためぜひ書庫に入れてもらいたいと頼んだ。宿直員は睡いところを起されたのでブツブツこぼしていたが、それでもチャンと起きてオーバーを取り、自《みずか》ら鍵をもって図書館の入口を開けてくれた――。帆村は礼もそこそこに、ドンドンと書庫の奥深くへ入っていった。
 そこで彼は、尨大《ぼうだい》な外国人名大辞林をとりだすと、卓子《テーブル》の上にドーンと置いた。
「デジネフデジネフ。さあ、早く出て来い」
 といって探した。しかし彼の期待は外れた、どうも現代に関係のありそうなものが出てこなかった。
「そうだ、これは地名辞典でひかなければ駄目なのじゃないか」
 帆村はそこで、また棚を探しまわって、更に大きな地名大辞典をひっぱりだした。そしてDの部をペラペラと繰《く》りひろげた。
「あ、あったぞ!」と帆村は鬼の首をとったように大声で叫んだ。「デジネフ岬《みさき》というのがある。カムチャッカ半島の東の鼻先のところにある岬の名だ。ベーリング海峡を距《へだ》てて北アメリカのアラスカに対しているそうだ。これに違いない」
 彼はそれからタイムスの世界大地図をまた担《かつ》ぎだして、カムチャッカ半島の部の頁《ページ》を繰った。たしかに有る有る。東に伸びた七面鳥の嘴《くちばし》の尖った先のようなところにある岬の名だ。ベーリング海峡を距てて右の方を見ると、そこに海亀の頭のようなアラスカの突端が鼻を突合したように迫っていた。そして、何気なくそこを見ると彼を狂喜させるようなものが目についた。
「ああ。もう一つの方は、向うから転げこんで来たじゃないか。プリンス、オヴ、ウェールス岬――つまり P. R. WALES はその略記号なのだ。これで読めた。この暗号は、ベーリング海峡を挟《さしはさ》んだ二つの岬の名を示しているのだ!」
 しかし何故《なぜ》そんな地名を暗号の上に掲《かか》げてあるのだろう? それを考えた時、帆村探偵はハタと行き止りの露地《ろじ》につきあたったような気がした。


   隠しインキ


 帆村探偵の熱心によって、とにかく暗号は解けたけれど、その暗号の意味まで解けたわけではなかった。帆村はW大学の図書館の閲覧室《えつらんしつ》をあっちへ歩きこっちへ歩き、灼《や》けつくような焦躁《しょうそう》の中に苦悶したけれど、どうにも分らない。アラスカのウェールス岬がどうしたというのだ。カムチャッカのデジネフ岬がどうしたというのだ。どっちも日本の土地ではない。だから日本に関係ないはずだ。しかし日本に関係のないことを、某国の参謀局がわざわざ日本にいる密偵長に知らせてくるのはどうも合点がゆかないことだった。どう考えてみても、なにか日本と関係があるにちがいない。さあ、それは一体どんなことだ?
 結局帆村探偵が到着した結論では、
 ――この漫画の暗号だけがこの密書の中に書かれている通信文の全体ではない!
 ということだった。別の言葉でいうと、この密書には、もっと沢山の言葉が並んでいなければならぬ筈だということだった。
 もっと沢山の言葉! それは一体どこに記《しる》されてあるのか。レターペーパーの裏をかえし表をかえしてみたが、それ以上の数の文字は何処にも発見できなかった。――帆村はまるで迷路の中に路《みち》を失ってしまったように感じた。かれはポケットを探ってそこに皺《しわ》くちゃになった一本の莨《たばこ》を発見した。それに火をつけて吸いはじめたが、それは筆紙《ひっし》に尽《つく》されぬほど美味《うま》かった。凍りついていた元気が俄《にわ》かに融《と》けて全身をまわりだした感じだ。彼は煙をプカプカと矢鱈《やたら》にふかし続けていたが、そのうちに椅子から飛びあがると、ハタと膝を打った。
「そうだ。僕は莫迦《ばか》だった。なぜそれにもっと早く気がつかなかったのだろう!」
 そう独言《ひとりごと》をいった彼は、襯衣《シャツ》のポケットに手を入れて何物かを探し始めた。
「あった、あった」
 彼がやっと取出したものは五、六本の燐寸の棒だった。その中から三本を抜きとって、あとは元通りにポケットの底にしまった。それから彼は館員から茶碗を一つ借りて、それに少量の水をたらし、その水の中へ三本の燐寸の頭を漬けた。
 暫《しばら》くすると、茶碗の水は薄《うっ》すらと黄色に変った。そこで燐寸の頭を取出し、そこに残った淡黄色《たんこうしょく》の水をいと興深げに眺めていたが、こんどは何思ったものかその水を指先につけて、卓子《テーブル》の上に伸べてあった漫画の水兵の紙面へポタポタとたらし、それをすらすらと拡げていった。かくすること両三度、――彼は息づまる思いでその紙面を穴の明くほどみつめていた。
「おお――」
 と、そのとき彼は嬉しさのあまり、歓声をあげたのだった。紙面にはあまり顕著《けんちょ》ではないが、なにか緑色の文字らしきものがポーッと浮かんで来たのだった。ああ、これこそ隠しインキによる暗号文だった! すると問題の燐寸の頭には密かに隠しインキの現像薬が練りこんであったといえる。密偵団が死力をつくして燐寸の棒の奪還をはかったわけもわかる。死の制裁をもって責任者を処罰したわけもわかる。それにしてもうまいところへ隠しインキの現像薬を隠したものである。燐寸の頭なのだ。燐寸なんてどこにも転がっているもので、これを持っていても怪しむ者はないだろう。万一怪しまれそうになっても、何喰わぬ顔をして検閲官の前で、火を点けると薬も共に燃えて跡方もなくなってしまう。実に巧妙な隠し場所だといわなければならない。
 帆村はあの燐寸が、銀座の鋪道に斃《たお》れた婦人の身辺から発見されたとき、それが不可解なる唯一の材料だった点からして、油断をなさず「赤毛のゴリラ」が小猿を使って燐寸函の奪還をはかったよりも前にひそかにその函の中から数本の燐寸の棒をポケットに滑りこませて置いたのだった。もしあのとき、そこに気がつかなかったとしたら、今日密書の上に書かれた秘密文字を読みとることは絶対に困難だったろう。随《したが》ってR事件も遂にその真相を知られないでしまい、後へ行って大椿事《だいちんじ》を迎えるに及んで始めてあれがその椿事の前奏曲だったかと思いあたるようなことになったかも知れない。それでは遺憾もまた甚《はなは》だしいといわなければならない。――
 密書紙上の秘密文字は、漸《ようや》く緑色もかなり濃く浮きだして来た。帆村はそこに書かれてある文字を拾って読みだしたが、彼の顔は見る見る紅潮して来たのだった。隠しインキは、そもそも何を語っていたのであろうか?


   疑問の第二の海峡


 帆村探偵が愕《おどろ》いたのも無理がない。そこに浮かび出た緑色の文字は、実に次のような意味の文句を綴《つづ》ってあった。
「……ボゴビ、ラザレフ岬。四日完了。……総攻撃開始は十日の予定、それまでにR区各員は一切《いっさい》の準備を終了し置くを要す」
 ボゴビ、ラザレフ岬とは何処《どこ》を指していうのか。また何を完了するというのか?
 総攻撃開始とは、何処を攻めるというのであるか?
 R区とは何処を云っているのか?
 各員は何を準備するのであるか?
 何のことだか、ハッキリは分らないけれど、帝都に巣喰う密偵団に準備をしろという点から考えると、これは何かわが日本帝国に関係のあることはいうまでもない。もっと深く知るためには、ボゴビ、ラザレフ岬という地名を知らねばならない。
 探偵帆村荘六は、憩《いこ》う遑《いとま》もなく、それからまた地名辞典の頁《ページ》を忙しく繰った。すると、果然あった、あった。ラザレフ岬にボゴビ町! ボゴビ町というのは、北樺太《きたからふと》の西岸にある小さな町の名だった。ラザレフ岬というのは、間宮《まみや》海峡をへだてて其の対岸にあたる沿海県の岬の名で、その間の距離は間宮海峡の中では一番狭いところだ。そしてニコライエフスクの南方約百キロの地点にあたる! この狭い海峡を距てて向いあった両地点に何が完了したというのか?
「はアて?」と帆村は頤《あご》を指先で強く圧《お》した。これは彼の癖で、なにか六《むず》ヶ敷《し》いことにぶつかったとき、それを解くためには是非これをやらないと智慧袋の口が開かない。
「デジネフ岬とプリンス・オヴ・ウェールス岬も、ごく狭い海峡を距てて向いあった両地点である。ところが、いま問題のボゴビとラザレフ岬も同じような地点である。これはどうしたというのか。地勢が似かよっているのは偶然なのだろうか、それともそこに深い意味があるのだろうか?」
 もちろん、これは偶然の暗号ではない。共通した地勢には、共通した問題が横たわっていると考えなければならない。すると、共通した問題とは何であるか、それこそはこの暗号の奥に秘められている大秘密でもあり、また敵の密偵長「右足のない梟《ふくろう》」が身命《しんめい》を賭《と》して達成しようとしている大使命でなければならない!
 さるにても、「ボゴビ、ラザレフ岬、四日完了」とあるが、四日とはいつのことだろう。
「今日は何日ですかねえ」
 と帆村は突如《だしぬけ》に、図書館の宿直氏にたずねた。
「ええ、今日ですか。今日は四日ですよ」
「なに四日? そうか、……そうなる、今日はたしかに十月四日だ。すると四日というのは今日のことかも知れない。うむ、これはこうしていられないぞ」
 帆村探偵は暗号の手紙をひっつかむと、館員には挨拶《あいさつ》もソコソコにして、W大学を飛びだした。
 それから三十分ほどして、探偵帆村は、彼の尊敬する牧山《まきやま》大佐の前に立っていた。そこで彼はこれまで探偵した結果を要領よく報告した後で、
「大佐どの、北樺太のボゴビと沿海県のラザレフ岬との間に、近頃何か異状はありませんか」
「なに、ボゴビとラザレフ岬との間? おお君はどうしてそれを知っているのだ、真逆《まさか》……」
「僕は、何も知らないのです。しかし僕の推理は、そこに何か異状のあるのを教えるのです。大佐どの、貴官にはそこに異状のあることがお分りになっているのですね」
「まあ、それは説明しまい。その代り君に見せてやるものがある。こっちへ来給え……」
 大佐は帆村をうながして、或る部屋へ引張っていった。そこの壁には、或る海峡らしい空中写真が沢山貼りつけられてあり、それには一枚一枚日附が記されてあった。
「この左の岬が、ラザレフ岬だ。この右の山蔭に見えるところがボゴビだ。さあ、日附を追って、この海峡の水面にいかなる変化が起っているかそれを見たまえ」
「なんですって? これが問題の両地点の写真なのですか。どうしてこんな写真を撮《うつ》すことが出来たのです」
「そんなことは訳はない。空中から赤外線写真を撮《と》ればいいのだ。わが領土内にいてもこれ位のことは見えるのだ」
 帆村は赤外線写真の偉力に愕きつつも、日附を追って海面の変化を辿《たど》っていったが、
「ああ、これは……」
 と思わず大声で叫んだ。帆村は一体そこに何を見たのであろう?


   赤外線写真


 その赤外線写真が、問題のボゴビ町とラザレフ岬とを一緒に撮ったものだと聞くだに胸が躍《おど》るのに、しかも壁一杯に貼りつけられた沢山の写真は毎日毎日撮影されたもので、いかなる変化がそこに起りつつあるかということを示しているものだと聞いては、物に動じない帆村探偵とても顔色を変えないではいられなかった。

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