の主、今は亡き稲田老夫婦の遺児お里に外ならなかった。――奥のかた霊前では、既に立ち去ろうとした北鳴四郎が、ばつの悪そうな、というよりも寧《むし》ろ恐怖に近い面持をして、落著《おちつ》かぬ眼《まなこ》を四囲にギロギロ移していた。
6
「奥に四郎さんが来ていますよ」
と、お里に注意をした者があった。
「まあ、四郎さんが……」
その昔の情人、北鳴四郎がこの町に帰ってきているとは、予《かね》て町の人々からうるさいほど噂には聞いていたが、思いがけなく、この奥に四郎が居ると聞かされて、お里は吾れにもなくポーッと頬を赤らめた。とたんに両手に抱えていた花束が、急にズッシリと重くなったのを感じた。
だが、その瞬間、お里の心は静かな湖水の水のように鎮まっていった。昔は昔、今は今である。今は夫英三に仕える心の外に、何物もない。何者にも恐れることはないのだ。恐らく四郎は、あの日、彼を裏切った自分や、露骨な妨害を試みた亡き両親などに復讐の念を抱いて、この町へ帰ってきたのだろう。しかしそれは今更、詮ないことだ。恨みといえば、恨みは彼女自身にあったかも知れない。なぜあのとき、四郎はもっと率直に、そしてもっと大胆に振舞ってはくれなかったのだろう。英三との縁談が降って湧いたとき、なぜ自分を唆《そその》かして、共にこの町から逃げようとはしなかったのだろう。お里に云わせると、四郎は温和な悧巧な美少年だったけれど、あまりにも心が弱かったし、女のように拗ねたがる男であったし、そして自らは知らぬらしいが見栄坊でもあった。彼は、そのために、決断力が足りなくて、そして自分で恋を捨てたようなものだった。彼は博士になるという話だが、人間放れのした博士には当然なれるかも知れない。しかし一人として血の通った女を手に入れることは出来ないであろうと思った。――彼女は、もうこうなれば、彼から恨みがましい言葉を聞いたときには、なにもかもその場に勇敢にぶちまけて、彼の卑屈な性根を叩きのめし、揚句の果に死んでしまってもいいと決心をした。
そこでお里は、重い花束を左手に持ちかえて、しずしずと奥の方へ進んでいったのであった。
「ほんとに四郎さんだったわネ。……ずいぶん暫くでしたのねえ。……」
四郎は木乃伊《ミイラ》のように硬くなっていた。
「やあ、お里ちゃん。暫くでしたネ。……ところで今度は、御両親たちは飛んだ御災難で……」
「ええ、飛んだことになりまして。……」
四郎の言葉には、すこし余所余所《よそよそ》しいところがあるばかりで、一向恨みがましい節も見えなかった。お里はこれを感ずると、それまでの張りつめた気が急に緩んで、全く弱い女になりきってその場に泣き崩れた。
すこし遅れて入って来た英三は、この場の光景に、ムラムラと憤懣《ふんまん》の気持を起した様子で、
「おお貴方が北鳴君ですか。僕がお里の亭主の英三です」
と、叩きつけるように云った。
それを聞くと同時に、四郎の顔から、今までの含羞《はにかみ》や気弱さが、まるで拭ったように消え去った。彼は、くそ落付《おちつき》に落付いて挨拶を交《か》わした。
「やあ……。申し遅れましたが、私が高層気象研究所の北鳴です。こんどは御両親が飛んだことで。……それに貴方も、類焼の難に遭われたとかで、なんともはや……」
この静かな挨拶に、英三とても自らの僻《ひが》んだ性根に赭《あか》くなって恥入ったくらいだった。
火を噴くかと思われた恋敵同士の会見が、意外にも穏かに進行していったので、一座は思わずホッと安心の吐息をした。それからのちも北鳴は、憎いほど謙遜と同情の態度を失わず、英三とお里とを反って恐縮させた上、最後に、彼等夫婦が想像もしていなかったような好ましい提言をした。それはこの比野町の西端に、新築の二階家があって、それを抵当流れで実は建築主から受取ったものの、自分はこの町に住むつもりはないので、空き家にして放っておくより法がない有様である。もし差支《さしつか》えなかったら、焼け出されたのを機会にといっては失礼だが、家賃なしでそこに住んでいてくれぬか。家が荒れるのが助かるだけでも自分は嬉しいのだがと、四郎は誠実を面《おもて》に現わして説明した。
この思いがけない申出に、行き所に悩んでいた英三夫妻は内心躍りあがらんばかりに喜んだがともかくその場は明答を保留することとした。そして再会を約して、穏かな一失恋者を門口《かどぐち》まで送っていったのであった。
四郎は外に出ると、暗闇の中でニヤリと薄気味の悪い笑いを口辺《こうへん》に浮べた。
「……今に見て居れ。……沢山驚かせてやるぞ!」
彼は口の中でそれを言って、獣《けだもの》かなにかのように低く唸った。――そして彼は、スタスタと歩を早めて、町外れの松吉の住居《すまい》さして急いだ
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