せんでした。これは甚《はなは》だ遺憾《いかん》に思っとります。唯《ただ》一つお目にかけて置きたいのは、この鋲《びょう》の頭です(と、前夜|卓子《テーブル》の脚のところから拾いあげた針のとれている鋲の頭を示しながら)これは犯行に関係のあるものなんです。ごらんなさい、この鋲《びょう》の頭は非常に薄く擦《す》りへらされています。これは故意にそうなされたもので、この鋲の頭に小さい穴があいていますが、この鋲を拇指《ぼし》の腹でグッと麻雀台に刺しこむと鋲の頭の肉が薄いために針が逆につきぬけて拇指《ぼし》をプスッと刺し貫く筈です。松山は犯人の注文どおりに拇指《ぼし》に傷をこしらえてしまったのです」
「それはお手柄だ」と検事が言った。「なにか犯人の指紋でも残っていませんか」
「松山の指紋はハッキリ附いていますが、其《こ》の外《ほか》には誰の指紋も見当りません」
「すると犯人は松山にその鋲をつかわせる機会を覘《ねら》っていたことになるね」と警部が云った。
「その鋲を使わせるために、犯人は湯呑み茶碗をひっくりかえさせて、白布《しろぬの》をとりかえました」
「ウン、それは」と検事は控帳《ひかえちょう》の頁をくりかえしてみながら「湯呑をひっくりかえしたのは星尾信一郎だな。星尾に嫌疑《けんぎ》がかかりますね」
「だが雁金検事」と帆村は言った。「茶碗をひっくりかえされるような場所に置いておくこともできますからね」
「それでは園部の湯呑み茶碗だったというから、園部が犯人というわけだね」と河口警部はおかしそうに笑った。「そりゃ余りに考えすぎていませんかな。それよりも犯人は殺人の機会をとらえるために、常に毒物や、仕掛のしてある鋲や、それから帆村さんの説によって使ったことが判った脱脂綿などを常に携帯していたわけだから、昨夜《さくや》捕《とら》えてきた三人の所持品を検査すればいいと思う。いや、実は今朝《けさ》、部下のものから報告があったのですが、問題の脱脂綿《だっしめん》がみつかったのです。それを持っていた人間まで解っています」
 検事と帆村探偵は呆気《あっけ》にとられた。
「それは星尾です。実は星尾を押《おさ》えに行った部下の刑事が、こちらへ護送してくる途中、星尾がソッと懐《ふところ》から出して道端《みちばた》に捨てたのをいち早く拾いあげたのです。それには茶褐色《ちゃかっしょく》の汚点《おてん》がついていました。鑑識係《かんしきかかり》にしらべさせたところ、例の毒物がついていたのです」
「星尾に当ってみたかね」と検事が訊いた。
「早速当ってみました。が、白状しません」
「そりゃそうだろう。星尾には松山を殺す動機がすこし薄弱《はくじゃく》すぎる」
「そうでもありませんよ、雁金さん。星尾は理科の先生です。科学的なことはお得意の筈です。それに星尾の父親というのが神戸に居ますが、これは香料問屋《こうりょうどんや》をやって、熱帯地方からいろいろな香水の原料を買いあつめては捌《さば》いているのです。阿弗利加《アフリカ》の薬種《やくしゅ》を仕入れる便利が充分あります。それから星尾は、すこし変態性欲者だという評判です。それから湯呑み茶碗をひっくりかえしたのも、兎《と》に角《かく》、彼でした。彼の犯行現場が帆村さんの眼に入らなかったのは先生|背後《うしろ》を向けていたからです」
 そう云えば帆村は、星尾の牌《パイ》がよく見えるところから、そればかりに気をとめて、其の行動には余り注意をしていなかった。警部の指摘した証拠は、たしかに星尾に濃厚な嫌疑をかけてよいものだった。
 そこで一同の前に星尾が引っぱり出されることになった。脱脂綿と毒物の出所《でどころ》について自白を迫ったのであったが、彼は中々思うように喋《しゃべ》らなかった。しかし警部が、物馴れた調子で彼に不利益な急所をジワジワと突いてゆくと、流石《さすが》にたまりかねたものと見えて、彼はとうとう口を開いた。それは検事たちの思いも設《もう》けぬ種類のことがらだった。
「実は、あの綿は、麻雀を打っているときに、みどりさんの袂《たもと》から盗みだしたのです。毒物については存じません」
 赤くなったり青くなったりして星尾の物語るところは、満更《まんざら》嘘《うそ》であるとは思えなかった。彼はその変態性欲について大いに慚愧《ざんき》にたえぬと述べて、汗をふいた。
 それで彼の嫌疑《けんぎ》は晴れたわけではなかったが、兎《と》に角《かく》、みどりに綿と毒物の事を訊問《じんもん》してみることにした。彼女は、すこし取乱している態《さま》で、昨夜彼女を連れて来た刑事に助けられつつその席についた。取調べによって彼女はこんな風に弁明した。
「わたしは昨日から……」とすこし言い淀《よど》んでいたが、「実は月経《メンス》になっていたのです。だから脱脂綿
前へ 次へ
全10ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング