顔は見えなかった。――乃公はそこでいつも勇ましい自分の顔を惚《ほ》れ惚《ぼ》れと見つめるのだった。ヴィクトル・エマヌエル第一世はこんな顔をしていたように思うなどと、私は反身《そりみ》になった。鏡の中の乃公の姿も、得意そうに、反身になったことである。
 鏡の前で、さんざん睨《にら》めっこや、変な表情や滑稽な身ぶりをして楽しんでいると、背後に突然人声がしたのだった。
「お飲みものは如何さまで……」
 それは若い男の声だった。
 ふりかえってみると、いつの間にか卓子《テーブル》の上に、銀の盆にのった洋酒の壜《びん》と盃とが並んでいた。そして入口のドーアを背にして、いま声を出したのであろう、立派な顔をしたスポーツマンらしい青年が立っている。いやそれだけではない、彼の青年とピッタリ寄りそって、一人の若い女が立っているのだった。彼等はいつの間に、どこから入ってきたのだろう。
 その女は、はじめ下を向いていたが、やがてオズオズと顔をあげて、乃公の方を睨むように見たのであった。
(呀《あ》ッ)
 乃公はいきなり胸をつかれたように思って、はっと眼を外《そ》らせた。ああ、その女は乃公の愛人だったのである。
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