ているのだろうか。それならそれでいい。よおし、こっちもそのつもりで居てやろう。
 乃公は震《ふる》える足を踏みしめて、椅子から立ち上った。そして二人の方を見ないようにして、静かに奥の、大鏡の方へ歩いていった。
 乃公はいつの間にか、鏡の真際に寄って立っていた。鏡をとおして二人の男女の様子を見ると、彼等は身体と身体を抱きあわんばかりにして、もつれ合っていた。女の方が挑もうという姿勢をする。と、若い男の方が、僅かに逡巡《しゅんじゅん》の色を見せるという風だった。乃公の血は、足の方から頭へ向けて逆流した。
 鏡を見ると、自分の顔は物凄《ものすご》いまでに表情がかわっていた。肩のあたりがわなわなと慄えているのが見えた。乃公が鏡の中から監視しているとも識らず、乃公の背後で不貞な奴等は醜行を演じかかっているのだ。乃公はすこし慌ててきた。声を出そうと思ったが咽喉がからからに乾いて声が出てこない。気を落付けなくてはいけない――
 乃公は煙草の力を借りようと思ったので、ポケットに手を入れて、そっとシガレット・ケースを引張りだした。そして蓋《ふた》をあけようと思ったが、どうしたのか明かない。乃公はそれを身体の蔭でやっているのである。顔を動かすこともいまは慎《つつし》まねばならないときだと思ったので、乃公は鏡に映っているその手を見た。そしてシガレット・ケースを見た。
(おや?)
 乃公はちょっと吃驚《びっくり》した。わが手の中にあるのは、シガレット・ケースではなかったから……。
(……ピストル!)
 乃公の握りしめているのは、一挺のブローニングの四角なピストルだったではないか。乃公はふらふらと眩暈《めまい》を感じた。
 すると、そのときだった。鏡の中の乃公はそのピストルを持つ手を静かに腹の方から胸へ上げてゆくのであった。そんな筈ではなかったのだが、乃公の意志に反してじりじりと上ってゆくのであった。奇怪なことにも、鏡の中の乃公の手は、乃公の本当の手よりも先にじりじり上へ上ってゆくのだった。ずいぶん気味のわるい話であるが、鏡の中の自分の方が、お先へ運動を起してゆくのだった。乃公はじっとしているのがとても恐ろしくなった。鏡の前に立っている自分が、この儘《まま》じっとしているなら、乃公は発狂するかもしれない。鏡の中の自分が動いて、その前に立っている筈の自分が動かないということは、とりもなおさず、
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