《しょるいばこ》の一つの抽出《ひきだし》に、「月世界の生物について」と題する論文集を発見いたしました。
 怪物が月に関係のあることは、兄はすでに感づいていたそうです。それでパラパラと論文を開いてゆくうちに、次のような文面を発見しました。
「月世界には、一つの生物がいるが、それは殆んど見わけがつかない。それは人間の眼では透明としか見えない身体をもっているからだ。その生物は形というものを持っていない。まるで水のように、あっちへ流れ、こっちへ飛びする。そして思いのままの形態をとることができる。液体的生物《えきたいてきせいぶつ》だ。アミーバーの発達した大きいものだと思えばよい。この生物は、もし地球上で大きくなったとしたら、必ず人間や猿のように固体《こたい》となるべきものであるが、月世界の圧力と熱との関係で、液体を保って成長したのである。
 恐《おそ》らくこの生物は、アミーバーから出発したもので、人間より稍《やや》すぐれた智慧をもっているものと思われる。それは、今日盛んに、この地球へ向って、信号を送っているからである。人間界には、この生物のあることを知っている者が殆んど居ない。それはあの透明な月の住民たちの身体を見る方法がなかったからだ。然《しか》るに予《よ》は、特殊の偏光装置《へんこうそうち》を使って、これを着色して認めることに成功した。その装置については、別項の論文に詳解しておいた。
 ここに注意すべきは、このルナ・アミーバーとも名付くべき生物は、地球の人類に先んじて月と地球との横断を試《こころ》みたい意志のあることである。おそらく、それは成功することであろう。彼等は地球へ渡航《とこう》したときに、身体の変質変形をうけることを恐れて、何かの手段を考え出すことであろうと思われる。予の考うるところでは、多分そのルナ・アミーバーは身体を耐熱耐圧性《たいねつたいあつせい》に富み、その上、伸縮自在《しんしゅくじざい》の特殊材料でもって外皮《がいひ》を作り、その中に流動性の身体を安全に包んで渡航してくるであろう。その材料について、予は左記の如き分子式を想像するが、この中には、地球にない元素が四つも交《まじ》っているので、もしルナ・アミーバーが渡来したときには、面白い研究材料が出来ることであろう、云々《うんぬん》」
 ルナ・アミーバーという、透明で、流動性の生物があることは、博士の論文を見て始めて知ったのです。これは恐《おそ》らく、博士夫妻の外《ほか》に知った人間は、兄が最初だったことでしょう。兄は勇躍して、その白毛《しらげ》のようなものをポケットから取り出しました。これは私が曾《かつ》て、壊《こわ》れた窓|硝子《ガラス》の光った縁《ふち》から採取《さいしゅ》したものでした。あの怪物が室内から飛び出すときに、鋭《するど》い硝子の刃状《はじょう》になったところで、切開したものと思います。
 兄は理学士ですから、スペクトル分析はお手のものです。博士の研究室のスペトロスコープを使って、その白毛みたいなものを、真空容器の中で熱し、吸収スペクトルを測定してみました。すると、どうでしょう。その結果が、博士の論文に掲《かか》げられた分子式と、ピッタリ一致したのです。
「ああ、ルナ・アミーバーだッ。ルナ・アミーバーの襲来《しゅうらい》だッ」
 兄は、気が変になったように、その室の中をグルグル廻って歩いたのです。
「どうしたのです、帆村さん」
 と博士夫人が階下から駈けつけられる。説明をしているうちに、夜がほのぼのと明けはなれ、そこへ白木警部一行が、掘り当てた谷村博士と黒田警官とを護《まも》って、急行で引っかえして来たのでありました。
 博士も黒田警官も、殆んど死人のように見えましたが、博士の用意してあった回生薬《かいせいやく》のお蔭で、極《ご》く僅《わず》かの時間に、メキメキと元気を恢復《かいふく》することが出来たのだそうです。
 この不思議な話を聞いて、私はもう寝ているわけにはゆかなくなりました。そして皆《みんな》の停《と》めるのも聞かず、ガバと床の上に、起き直りました。
 室の向うは、博士の研究室です。なんだかモーターがブルンブルンと廻っているような音も聞え、ポスポスという喞筒《ポンプ》らしい音もします。イヤに騒々《そうぞう》しいので、私は眉《まゆ》を顰《ひそ》めました。
「だから無理だよ。もっと寝ていなさい」と兄はやさしく云いました。
「イヤ身体はいいのです。もう大丈夫。――それよりも向うの部屋で、一体なにが始まっているんですか」
「はッはッ、とうとう嗅《か》ぎつけたネ」と兄は笑いながら、「あれはネ、たいへんな実験が始まっているのだ」
「大変て、どんな実験ですか」
「実はルナ・アミーバーを一匹|掴《つかま》えたんだ。そいつは、この門の近くの沼に浮いているのを見付けたんだ。なにしろ沼の水面が、なんにも浸《つか》っていないのに、一部分が抉《えぐ》りとったように穴ぼこになっていたのだ。地球の上ではあり得ない水面の形だ。それで、この所にルナ・アミーバーが浮いているんだなということが判ったんでいま引張りあげ、博士が先頭に立って実験中なんだ」
「私にも見せて下さい――」
 私はもうたまらなくなって、寝台《ベッド》の上から滑《すべ》り下《お》りました。


   ルナ・アミーバーの実験


 なんだか訳のわからない器械が並んだ実験室には、東京からこの珍らしい実験を見ようと駈けつけた学者で、身動きも出来ません。
 真中に立っていた谷村博士は、私の入って来たのに気がついて、こっちを向かれました。
「おお民彌《たみや》君。もう元気になりましたか」
「はい」
「いやア、あなた方ご兄弟のお蔭で、ここにいる一匹のルナ・アミーバーが手に入りましたよ」
 そういって博士は、前に横《よこた》わっている大きい硝子製《ガラスせい》のビール樽《だる》のようなものを指《ゆびさ》しました。しかしその中は透明で、博士の云うものは何も見えません。
「いまはまだ見えますまい」と博士はすぐ私の顔色を見て云いました。「しかし今に見えますよ。偏光作用《へんこうさよう》がうまく行ったらネ」
「偏光作用といいますと」
「この硝子器の中に、ルナ・アミーバーが居るのです。この中をすっかり真空にして、こっちの方から偏光をかけてやると、肉眼でも見えてくるのですよ」
「こいつはどうして捕ったんでしょうネ。大変強い動物でしたのに」
「動物じゃなくて、植物という方がいいかも知れませんよ。――弱っているわけは、あの硝子窓を通るときに、外皮《がいひ》を大分|引裂《ひきさ》いたので、地球の高い温度がこたえるのです。そしてこのルナ・アミーバーは、兄さんを胴締《どうじ》めにしていた奴です。あのとき此奴《こいつ》は、兄さんに苦《くるし》められたのです。兄さんは護身用《ごしんよう》に、携帯感電器《けいたいかんでんき》をもっていらっしゃる。あの強烈な電気に相当《そうとう》参《まい》っているところへ、あの硝子の裂《さ》け目《め》へつっかかったんで、二重の弱《よわ》り目に祟《たた》り目で、沼の中へ落ちこんだまま、匍《は》い上《あが》りも飛び上りも出来なくなったんですよ。つまり荘六君と民彌君とのお二人が、この怪物を捕えたも同様ですネ」
 私はそのとき、目に見えぬルナ・アミーバーと闘ったことを思いだしました。
「この一匹の外《ほか》はどうしたのですか」
「もう月の世界へ逃げかえったことでしょう。今夜月が出ると、その天体鏡《てんたいきょう》でのぞかせてあげましょう」
「すると、あの小田原の町に現れていたサーベルを腰に下げた老人や、白衣《びゃくい》を着た若者なども、逃げかえったんですか」
「いや、あれは……」と博士はすこし赧《あか》くなって云いました。「あれは私と黒田さんなんです。二人はルナ・アミーバに捕《つかま》って、あのとおり彼奴《あいつ》の身体に捲《ま》きこまれていたのです。だからいかにも私たちは空中に飛んでいるように見えましたが、実はルナが飛んでいたわけで、私たちは、ルナの上に載《の》っているようなものでした。そして彼奴は、私たちを勝手に裸にしたり、そして間違ってサーベルや白衣を着せたりしたのです」
「ああ、そうでしたか」
 私は始めて、空中を飛ぶ男の謎がとけたのを感じました。
「では、小田原や隧道で暴れたのも、先生たちの力ではなかったのですネ」
「そうですとも。あれは皆ルナ・アミーバーの一隊がやったことです。たまたま中で見える私たちだけが騒がれたわけです」
「しかし先生、あの崩れる鬼影はどうしたのです。硝子窓に、アリアリと鬼影がうつりましたよ」
「あれはこのルナの流動する形が、うっすりと写ったのです。月の光に透《す》かしてみると、ほんの僅《わず》か、形が見えます。それはあの月光に、一種の偏光が交《まじ》っているから、月光に照らされて硝子板の上にうつるときは、ルナの流動する輪廓《りんかく》が、ぼんやり見えたのですよ」
「ははーん」
 私は、この大きな謎が一時に解けたので、思わず大きな溜息《ためいき》をつきました。
 そのとき一座が俄《にわ》かにドヨめきました。
「ああ、いよいよ、ルナ・アミーバーが見えて来ましたよ」


   大団円《だいだんえん》


 ああ何という不思議!
 硝子樽の中には、いままで何も無いように思っていましたが、ジリジリブツブツと、なんだか紫色の霧のようなものが動揺を始めたと思う間もなく色は紅《くれない》に移り、次第次第に輪廓《りんかく》がハッキリして来ました。やがてのことに、青味《あおみ》を帯《お》びたドロンとした液体が、クネクネとまるで海蛇《うみへび》の巣を覗《のぞ》いたときはこうもあろうかというような蠕動《ぜんどう》を始めました。なんという気味のわるい生物でしょう。覗《のぞ》きこんでいる人々の額《ひたい》には、油汗《あぶらあせ》が珠《たま》のように浮かび上ってきました。
「ああ、いやらしい生物だッ」
 誰かがベッと、唾《つば》を吐《は》いて、そう叫びました。それが聞えたのか、ルナ・アミーバーは、草餅《くさもち》をふくらませたように、プーッと膨脹《ぼうちょう》を始め、みるみるうちに、硝子樽《ガラスだる》一ぱいに拡《ひろ》がりました。
「これはッ――」
 と思って、一同が後退《あとずさ》りをしたその瞬間、がちゃーンという一大音響がして、サッと濛々《もうもう》たる白煙《しろけむり》が室内に立ちのぼりました。
「呀《あ》ッ――」
 私達は壁際にペタリと尻餅をついたことにも気が付かない程でした。バラバラとなにか上から落ちてくるので、気がついて天井を見ますと、そこには大きな穴がポッカリ明いていました。
「オヤオヤ。ルナが逃げたッ」
「どうして逃げたんだッ」
「弱っていたと思っていたがな」
「いや、これは私の失敗でした」と博士は別に駭《おどろ》いた顔もせずに、静かに口を切りました。
「どうしたんです」
「いえ、彼奴《あいつ》の入っている容器を真空にしたのがいけなかったんです」
「なぜッ」
「真空は、彼奴の住む月世界《げっせかい》の状態そっくりです。だから弱っている彼奴は、たちまち元気になって、器《うつわ》を破って逃走したのです。ああ、失敗失敗」
 こんなわけで、折角《せっかく》生捕《いけど》ったたった一匹のルナ・アミーバーでありましたが、惜しくも天空《てんくう》に逸《いっ》し去ってしまったのです。
 いやはや、残念なことでありましたが、谷村博士を責《せ》めるのもどうかと思います。ルナが逃げてしまったのですから、「崩れる鬼影」について私の申上げる話の種も、もうなくなりました。



底本:「海野十三全集 第8巻 火星兵団」三一書房
   1989(平成元)年12月31日第1版第1刷発行
初出:「科学の日本」博文館
   1933(昭和8)年7月〜12月号
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2005年11月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.ao
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