怪物を捕えたも同様ですネ」
私はそのとき、目に見えぬルナ・アミーバーと闘ったことを思いだしました。
「この一匹の外《ほか》はどうしたのですか」
「もう月の世界へ逃げかえったことでしょう。今夜月が出ると、その天体鏡《てんたいきょう》でのぞかせてあげましょう」
「すると、あの小田原の町に現れていたサーベルを腰に下げた老人や、白衣《びゃくい》を着た若者なども、逃げかえったんですか」
「いや、あれは……」と博士はすこし赧《あか》くなって云いました。「あれは私と黒田さんなんです。二人はルナ・アミーバに捕《つかま》って、あのとおり彼奴《あいつ》の身体に捲《ま》きこまれていたのです。だからいかにも私たちは空中に飛んでいるように見えましたが、実はルナが飛んでいたわけで、私たちは、ルナの上に載《の》っているようなものでした。そして彼奴は、私たちを勝手に裸にしたり、そして間違ってサーベルや白衣を着せたりしたのです」
「ああ、そうでしたか」
私は始めて、空中を飛ぶ男の謎がとけたのを感じました。
「では、小田原や隧道で暴れたのも、先生たちの力ではなかったのですネ」
「そうですとも。あれは皆ルナ・アミーバーの一隊がやったことです。たまたま中で見える私たちだけが騒がれたわけです」
「しかし先生、あの崩れる鬼影はどうしたのです。硝子窓に、アリアリと鬼影がうつりましたよ」
「あれはこのルナの流動する形が、うっすりと写ったのです。月の光に透《す》かしてみると、ほんの僅《わず》か、形が見えます。それはあの月光に、一種の偏光が交《まじ》っているから、月光に照らされて硝子板の上にうつるときは、ルナの流動する輪廓《りんかく》が、ぼんやり見えたのですよ」
「ははーん」
私は、この大きな謎が一時に解けたので、思わず大きな溜息《ためいき》をつきました。
そのとき一座が俄《にわ》かにドヨめきました。
「ああ、いよいよ、ルナ・アミーバーが見えて来ましたよ」
大団円《だいだんえん》
ああ何という不思議!
硝子樽の中には、いままで何も無いように思っていましたが、ジリジリブツブツと、なんだか紫色の霧のようなものが動揺を始めたと思う間もなく色は紅《くれない》に移り、次第次第に輪廓《りんかく》がハッキリして来ました。やがてのことに、青味《あおみ》を帯《お》びたドロンとした液体が、クネクネとまるで海蛇《うみへび》の巣を覗《のぞ》いたときはこうもあろうかというような蠕動《ぜんどう》を始めました。なんという気味のわるい生物でしょう。覗《のぞ》きこんでいる人々の額《ひたい》には、油汗《あぶらあせ》が珠《たま》のように浮かび上ってきました。
「ああ、いやらしい生物だッ」
誰かがベッと、唾《つば》を吐《は》いて、そう叫びました。それが聞えたのか、ルナ・アミーバーは、草餅《くさもち》をふくらませたように、プーッと膨脹《ぼうちょう》を始め、みるみるうちに、硝子樽《ガラスだる》一ぱいに拡《ひろ》がりました。
「これはッ――」
と思って、一同が後退《あとずさ》りをしたその瞬間、がちゃーンという一大音響がして、サッと濛々《もうもう》たる白煙《しろけむり》が室内に立ちのぼりました。
「呀《あ》ッ――」
私達は壁際にペタリと尻餅をついたことにも気が付かない程でした。バラバラとなにか上から落ちてくるので、気がついて天井を見ますと、そこには大きな穴がポッカリ明いていました。
「オヤオヤ。ルナが逃げたッ」
「どうして逃げたんだッ」
「弱っていたと思っていたがな」
「いや、これは私の失敗でした」と博士は別に駭《おどろ》いた顔もせずに、静かに口を切りました。
「どうしたんです」
「いえ、彼奴《あいつ》の入っている容器を真空にしたのがいけなかったんです」
「なぜッ」
「真空は、彼奴の住む月世界《げっせかい》の状態そっくりです。だから弱っている彼奴は、たちまち元気になって、器《うつわ》を破って逃走したのです。ああ、失敗失敗」
こんなわけで、折角《せっかく》生捕《いけど》ったたった一匹のルナ・アミーバーでありましたが、惜しくも天空《てんくう》に逸《いっ》し去ってしまったのです。
いやはや、残念なことでありましたが、谷村博士を責《せ》めるのもどうかと思います。ルナが逃げてしまったのですから、「崩れる鬼影」について私の申上げる話の種も、もうなくなりました。
底本:「海野十三全集 第8巻 火星兵団」三一書房
1989(平成元)年12月31日第1版第1刷発行
初出:「科学の日本」博文館
1933(昭和8)年7月〜12月号
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2005年11月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.ao
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