崩れる鬼影
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)月光下《げっこうか》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)昔|嫦娥《じょうが》という

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)元気なとき[#「とき」に傍点]
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   月光下《げっこうか》の箱根山《はこねやま》


 それは大変月のいい夜のことでした。
 七月の声は聞いても、此所《ここ》は山深い箱根のことです。夜に入ると鎗《やり》の穂先《ほさき》のように冷い風が、どこからともなく流れてきます。
「兄さん。今夜のようだと、夏みたいな気がしないですネ」
「ウン」兄は真黒《まっくろ》い山の上に昇った月から眼を離そうともせず返事をしました。
 兄はなにか考えごとを始めているように見えました。兄の癖《くせ》です。兄は理学士なのですが、学校の先生にも成らず、毎日洋書を読んだり、切抜きをしたり、さもないときは、籐椅子《とういす》に凭《もた》れ頭の後に腕を組んでは、ぼんやり考えごとをしていました。なんでも末は地球上に一度も現れたことの無い名探偵になるのだということです。探偵名を帆村荘六《ほむらそうろく》といいます。
「民ちゃん、御覧よ」と兄が突然口を切りました。空を指しています。「あの綺麗《きれい》な月はどうだい」
「いいお月様ですね」
「東京では、こんな綺麗な月は見られないよ。箱根の高い山の上は、空気が濁《にご》っていないから、こんなに鮮かに見えるのだよ」
「今夜は満月でしょう」
「そうだ、満月だ。月が一番美しく輝く夜だ。まるで手を伸ばすと届くような気がする。昔|嫦娥《じょうが》という中国人は不死の薬を盗んで月に奔《はし》ったというが、恐らくこのような明るい晩だったろうネ」
 私は嫦娥などという中国人のことなどはよく知らないのですが、しかしお月様の中に棲《す》んでいるという白兎《しろうさぎ》が、ピョンと一|跳《は》ねして、私の足許《あしもと》へ飛んできそうな気がしました。
「だが向うの森を御覧」と兄は又別のことを云いだしました。「あの森蔭の暗いことはどうだ。あまり月が明るいので、却《かえ》ってあんなに暗いのだ」
「なんだか化物がゾロゾロ匍《は》いまわっているようですね」
 そうは云ってしまったものの、私は失敗《しま》ったと思いました。何という気味のわる
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