則を無視したような芸当《げいとう》ですから私は驚きました。これは様子がおかしいと気がついて、やっと助け下ろしますと、「崩《くず》れる鬼影《おにかげ》!」と不思議な言葉を呟いたまま人事不省《じんじふせい》に陥《おちい》ってしまいました。
「崩れる鬼影」とは、あの老婦人も譫言《うわごと》のように叫んでいた言葉ではありませんか。これは一体どうしたというのでしょう。鬼影とはなんでしょう。それが崩れるとは、何のことだか一向見当がつきません。
「兄さん。兄さん――」
私は兄の荘六の耳元で、ラウドスピーカーのような声を張りあげました。でも兄はピクリとも動きません。反応がないのです。
「兄さん、しっかりして下さい――」
と今度は両手でゆすぶってみました。しかしやっぱり兄はまるで気がつきません。所は山深い箱根のことです。人里とては遠く、もう頼むべき人も近所にはないのです。私はどうしてよいのやら全く途方に暮れてしまいました。ポロポロと熱い泪《なみだ》が、あとからあとへ流れて出ます。私はもう怺《こら》えきれなくなって、ひしと兄の身体に縋《すが》りつき、オイオイと声をあげて泣き始めました。笑ってはいけませんよ。誰でもあの場合、泣くより外《ほか》に仕方がなかったと思います。
「ああ、ひどい熱だ――」
兄の額《ひたい》は焼《や》け金《がね》のようです。私はハッと思いました。兄をこの儘《まま》で放って置いたのでは死んでしまうかも知れないぞと思いました。そうなると、もうワアワア泣いてなど居られません。私は一刻も早く、兄の身体を医者に見せなければならないと気がつきました。
私は気が俄《にわ》かにシッカリ引き締まるのを覚えました。
「日本の少年じゃないか」私は泪をふるい落としました。「非常の時に泣いていてたまるものか。なにくそッ――」
私はヌックと立ち上ると、お臍《へそ》に有《あり》ったけの力を入れました。
「ウーン」
すると不思議不思議。気がスーゥと落付いてきました。鬼でも悪魔でも来るものならやってこい――という気になりました。
私は兄のために、さしあたり医者を迎えねばならないと思いました。この家のうちには電話があるのではないかと思ったので、兄の身体はそのままとし、階下《した》へ降りてみました。階段の下に果して電話機がこっちを覗《のぞ》いていましたので、私は嬉しくなって飛びついてゆきま
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