た牛や豚の置場じゃないか」
奥に寝ていた杉田二等水兵は、ここがそんな場所だとはまだ気がつかない。あたりには累々《るいるい》と、殺された家畜の首がない体が横たわっているのであった。
突然だだだーんと、ピストルが鳴った。
杉田はあっと叫ぼうとした声を、のどの奥にのみこんだ。
(とうとう見つかったか)と思った時、
「誰もいやしないよ。いればいまのピストルの音におどろいて、跳ねだしてくる筈だ」
「さあ、先へ急ごうぜ」
乱暴な捜索があったものである。ピストルを放って何の手ごたえもないところから、一行は安心してそこを出ていった。
二人は、ほっと吐息をついた。
しばらくしてから、川上機関大尉は隅からのっそり立ちあがって、杉田二等水兵の寝ているところへやってきた。
「おい杉田。大丈夫か」
「はっ、私は大丈夫であります。機関大尉はいかがでありますか」
「なあに、どこもやられはしない。ときに杉田。俺は時間が来たから、ちょっと外へ出て、艦隊へ無電をうってくる。俺がかえってくるまでそこにじっと寝ているのだぞ。ここはちょっと普通の人間には踏みこめないところだから、安全な場所だ」
杉田はすこし心細く感じたが、何事も国家のためだと思い、機関大尉の出てゆく男らしい後姿を見送った。
すると一旦外に出かけた彼は、なにを思いだしたか、つかつかと室内へ戻ってきた。そして杉田の耳許に口をつけると、
「おい杉田、万一お前が捕らえられるようなことがあったら、そのときは官姓名をはっきり名乗ったがいいぞ。もう向こうにはわかっているのだ。そうすれば殺される心配がない。そういうことになれば俺はきっとお前を救い出しにゆくから、さっきみたいに、自殺しようなどと考えてはいけないぞ。皇国のため、どんな苦しい目にあっても生きていろ。いいか」
そういうと、川上機関大尉はペンキの入った缶をぶら下げて、外へ出ていってしまった。
血路
ペンキ工の機関大尉は、暗がりの中をとことこと歩いていった。
あたりの様子をうかがいながら、狭い廊下の角をいくつか曲った。そしてやがて辿りついたのは、飛行島の舷《ふなばた》だった。深夜の海面には祖国の夜を思い出されるような月影がきらきらとうつっていた。
川上機関大尉は、あたりに人気のないのを見すますと、ペンキの缶の底をひらいて、二条の針金をひっぱりだした。その針金の先についている小さい物挟《ものばさみ》を、舷の梁上《はりうえ》に留めると、針金は短波を送るためのアンテナとなった。
そこで彼は、小さな受話器を耳にかけ、同じく缶の底にとりつけてある電鍵をこつこつ叩いて、軍艦明石の無電班を呼んだ。
相手は、待っていましたとばかりにすぐ出てきて、暗号化したモールス符号で応答してきた。
機関大尉は溜めておいた重大な報告を一つ一つ電鍵を握る指先にこめて打ちはじめた。
その時、頭の上で、ごそりと人の気配がした。
彼は、はっと驚いて上を見た。梁の上にピストルがきらきらと光って、その口がこっちを向いていた。
「はっはっはっ。日本のスパイ君。君はとうとう秘密のお仕事を始めからすっかり見せてくれたね。さあ手をあげるんだ。こら、なぜあげないのだ。あげないか。撃つぞ」
だだーん。
梁の上から、銃声がとどろいた。
ピストルの弾丸《たま》は、川上機関大尉の抱えていたペンキの缶にあたった。
缶は、あっという間もなく舷を越えて下にころげ落ちた。
とたんにひらりと身を飜して、逃げだした。
「待て、スパイ」
梁上からは、英国士官がとびおりた。そして警笛をぴりぴりと吹いた。
それに応じて、どやどやと駈けよってくる捜査隊の入りみだれた足音!
「ちぇっ、しまった」
と機関大尉は舌うちしながら、足音と反対の方へ、狭い通路を走りだした。
「こら、待たんか」
ぱぱーん、だだーん。
銃声は背後間近に鳴りひびく。
ひゅーん、ひゅーんと弾丸は機関大尉の耳もとを掠《かす》めるが、運よく当らない。
が、そのうちに彼は、通路の両方から挟まれてしまった。
「ええい、逃げるだけ逃げてみよう。攻勢防禦だ」
と人数の少い方の通路を見きわめると、猛然矢のように突入した。
敵のひるむところを、よしきたとばかり猛進して、相手を投げとばし、敵の体をのり越えて走り続けたが、とうとう袋小路の中にとびこんでしまった。そこから先は路《みち》がない。ただ行当りをさえぎっている塀は、そう高くはない。
「よし来た」
彼は咄嗟《とっさ》に、つつーっと走って弾みをつけると、機械体操の要領で、えいと叫んで塀にとびついた。
下は海――かと思ったが、そうではなくて一段だけ狭い甲板であった。暑くるしい夜をそこに涼んでいたらしい一人の苦力《クーリー》がびっくりしてとびおきた。
川上機関大尉はえい
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