田二等水兵の体をうけとめたのであろうか。
 もともとそのペンキ工は、怪しい奴であった。飛行島建設団長のリット少将が起き伏ししている「鋼鉄の宮殿」の塔の上で、いつまでも同じところばかり塗っていた。そしてスミス中尉が持っている秘密電報の文面をそっと読んで、あとは知らぬ顔をしていた。まったく変なペンキ工だった。だがその正体のいよいよわかる時が来た。
 杉田二等水兵は、何分の間か、それとも何十分にもなるか、とにかく相当の時間夢うつつの状態の中をさまようた後、ふと気がついた。
「うーん」
 彼はうなりながら、自分の声にびっくりした。気がつくと、全身の痛みを激しく感じ出した。
 彼の頭の中には、ヨコハマ・ジャックの憎々しい形相や、一癖も二癖もあるようなリット少将のぶくぶくたるんだ顔などが浮かんだ。何くそと思って、立ち上った――つもりであったが、
「しずかに、しずかに」
 と制する低い人の声に眼をあいてみれば、自分は見たこともない薄暗い室の隅に寝ているのであった。
 誰かしらぬが二本の手が、杉田の肩をやわらかく下におさえつけているではないか。
 低い声は、杉田の頭の上で二度三度とくりかえされた。
 彼はいわれるままに静かに手足を伸ばした。
 一たい何人であろう。
「どうもすまんです。いつの間に私はどうしてこんなところに来たのですか。教えてください」
 すると低い声は軽く笑って、
「そんなことは後でいい。また出血をすると困るから、なにも考えないで、もう暫くじっとしていたまえ」
 とやさしくいった。
 杉田はぼんやりした頭の中で、ふとその声音に聞耳をたてた。それはたしかに、どこかで聞きおぼえのある声だった。しかも懐かしい日本語! あのような声で話した人は……?
「だ、誰です、あなたは……」
「しずかにしていなきゃいけないというのに。お前さんの言葉が誰かの耳に入ると、そのときはもうどうにも助りっこないぜ」
「あっ! そういう声は――ああ川上機関大尉だ。か、川上……」
 杉田はわめいた。そして自分の肩をおさえている手をふりはらって、がばと起きあがった。
 と同時に、彼の枕許にうずくまっていたやさしい声の主と、ぱったり顔を合わした。それは外ならぬ怪しい中国人のペンキ工の姿であった。
「おおあなたが」
 杉田はそう叫ぶと、傷の痛みも忘れて、その胸にしっかり抱きついた。
「おお杉田。お前はよくやって来たな」
 まぎれもない川上機関大尉の声だった。
「す、杉田は、う、う、嬉しいです。も、もう死んでも、ほ、本望だっ」
 あとは涙に曇って聞きとれない。
「な、泣くな杉田――。お前が来てくれて、俺も嬉しいぞ」
 中国人のペンキ工に変装した川上機関大尉と半裸の杉田二等水兵とは、薄暗い室の隅にしっかりと抱きあったまま、はりさけそうな胸をおさえてむせび泣いた。


   すわ曝露?


 怪しいペンキ工の謎は解けた。
 密命を帯びたわが川上機関大尉は、巧みに変装して、リット少将の身辺をひそかにうかがっていたのであった。
 彼がいつも片手にぶら下げているペンキを入れた缶の底には、精巧をきわめた短波無線電信機がかくされてあったのである。
 彼は苦心に苦心をして、いろいろなことを探った。そして、たえず暗号無電で、軍艦明石の無電班と連絡をとっていたのであった。
 彼は杉田二等水兵の到着に早くから気がついていた。上官の身の上を案じてひそかに南シナ海を泳ぎわたってきた部下の情を知って、どんなに嬉しく思ったことだろう。が同時にまた苦しくもあったのだ。なぜなら、自分ひとりでさえ隠れるのに骨が折れるのに、日本語しかわからない杉田が来たのでは、とうてい永く秘密にしておけるものではない。これは困ったことになったと思った。果せるかな、それは意外にも早くやって来たのだ。
「おい杉田。もう泣くな。いま俺たちのうしろには、敵の眼が数百となく迫っているのだ。わが帝国のためを思えば泣いているときじゃない。涙を拭って、すぐさま敵と闘わねばならないのだ。――ほら、誰かこっちへやってくる」
「えっ、――」
「黙っていろ。動くな。どんなことが起っても動いちゃならん」
 高い声でしゃべりながら、どやどやとこっちへやってくる人の足音。
「どうしても、この付近だ。わが英国製の方向探知器に狂いはないんだ」
「よし、そんなら部屋を壊してもいいから、徹底的にしらべあげろ」
「こんどは、こっちだこっちだ」
 早口の英語が、すぐ傍まで来た。
 ここは何かの物置らしい。
 隙だらけの入口の板戸をとおして、強い手さげ電灯の光がいたいほど明るくさしこんでくる。
「ここが臭いぞ」
「開けてみろ」
「なんだ、この部屋は――」
 扉がぎーいと開く音がした。
 それにつづいて、数個の眩しい電灯が室内を照らしつけた。
「なあんだ、ここは殺し
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