スの袷《あわせ》の裏に、娘の名を赤い糸で縫いとっておきました。房枝さん、もしや、あなたの本名は小雪とおっしゃるのではありませんの」
夫人の声は、ふるえる。
「いいえ、とんでもない、あたくしの名は、小さいときからただ一つ、房枝なんですわ」
「まあ、でも」
「あたくしは、生れてからずっと曲馬団《きょくばだん》の娘なんですわ。どうして、奥様のようないい方を、母親にもてるものですか。ごめんあそばせ」
房枝は、その場にいたたまらなくなって、スミ枝たちにはかまわず、一散に外へ走りだしたのであった。
何もしらないトラックの運転手は、いよいよ帰るのだと思って、運転台へとびのった。そのうちに慰問隊の少女たちは、ぞろぞろと工場の中から出てきた。ただ一人スミ枝だけが、なかなか出てこなかったが、しばらくして、ようよう道子夫人と一緒に出て来た。スミ枝が最後に車上の人になると、トラックはうごきだした。房枝は、うずくまって、手で顔をおおったままついに頭をあげなかった。
賑《にぎ》やかな拍手をもって花の慰問隊を送る工場の人々に交って、道子夫人の顔だけが、ひとり憂《うれい》にとざされていた。
慰問隊は、一旦日比谷に引揚げ、そして夕方の六時近くになって、めでたく解散した。
房枝は、スミ枝をさそってそばやに入った。そしておそばを二つとったが、房枝はついに箸《はし》をつけず、スミ枝の方へ押してやった。
そこを出ると、房枝は、わざわざ暗い裏町をえらぶようにして、ただ黙々としてあるきつづけるのであった。困ったのは、そばについて、一緒にあるかされているスミ枝だった。何を話しかけても、いつになく強情に、房枝はへんじ一つしなかった。
「ねえ、房枝さん。あんた、いじわるね。あたしにあいたいとか、かゆいとかぐらいへんじをしても、ばちがあたりゃしないでしょう」
スミ枝は、とうとう怒り出した。それでも房枝は、頑《がん》としてへんじをしなかった。これにはスミ枝も、全く手をやいてしまったが、ふと思い出して、
「そうそう、房枝さん。あのいい奥様が、あたしかえろう[#「あたしかえろう」はママ]とすると、それを引止めて、こんなことをいったわよ。あの、いつだか、あの奥様があんたにくれたあの手箱ね、あの手箱に張ってあるメリンスのきれがあるでしょう。あのメリンスのきれに、あんたがおぼえがないか、きいてほしいといってたわよ。
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