、左に矢部が寝かされていた。
 こんどの手術は、わりあい簡単にいった。半年もすると、矢部の方は、まだいくぶん元気がなかったが、宮川の方はもう退院できるようになった。
「おい婦長。いよいよ宮川氏は明日退院させるが、君になにか意見はないかね」
「まあ、黒木|博士《せんせい》。わたくしになんの意見がございましょう。この前は、宮川さんがたいへんな外傷《がいしょう》を負っていらしったせいで、あのように手術後の恢復も長引き、精神状態も危かしかったのでございましょうね」
「まあ、そんなところだろうよ」
 看護婦長すら満足したほどの治癒《ちゆ》程度で、宮川は退院した。
 病院の門を出て、彼が一つの町角《まちかど》を曲ると、そこには洋装の佳人《かじん》が待っていて、いきなり彼にとびついた。それは外ならぬ山崎美枝子だったのである。
「まあ、宮川さん。ずいぶん待ってたわよ」
「おお美枝子さん。こんどこそ僕は、君を失望させないよ」
 二人は小鳥のようにたのしそうによりそいながら、向うの通りに消えた。
 ところが、それから二三日たって、宮川は真白な救急車にはこばれて、黒木博士の病院へかえって来た。彼の顔には、白い布《ぬの》がかぶせてあった。博士は、その布をのけて宮川の後頭部をしらべたが、そこには描写《びょうしゃ》のできないほどのひどい傷があった。
「警部さん、連れの女はどうしました」
「ああ、黒木博士、連れの女は、逃げてしまいました。行方を厳探中《げんたんちゅう》です」
「犯人の方はどうしましたか」
「ああ、八形八重《やがたやえ》という年増女ですか。これはその場で取押《とりおさ》えて、一時本庁へつれてゆきました」
「精神病院から逃げだしたんだそうですね」
「そうです。ですが、この八形八重という女は、どうも正気《しょうき》らしいですぜ。この前の事件で、刑務所に入るのがいやで、装っていたんじゃないですかなあ。被害者宮川のうしろから忍びよって兇器《きょうき》をふるったことを、こんどははっきりした語調でのべました」
「ふーん、そうですか」
「こんどまた被害者宮川が博士の手で生きかえれば、きっとまた殺さないでおくべきかといっていましたよ。まるで芝居のせりふもどきですよ、ははは」
「いや、この傷では宮川氏はもう二度と生きかえらないでしょう」
 宮川は、彼が捨てた八形八重のため、二度も兇刃《きょうじん》をうけたのだった。博士は宮川のためにそれをいわなかったが、あの青い手帖に書かれてあったYという女はこの八重にちがいなく、もちろんあの手帖は宮川のものにちがいなかった。ただ手帖を記憶していた脳の部分が欠損《けっそん》したので、その記憶を失っただけのことだ。
 この事件以来、博士は脳の移植手術をやることを好まなくなった。



底本:「海野十三全集 第7巻 地球要塞」三一書房
   1990(平2)年4月30日初版発行
初出:「日の出」
   1939(昭和14)年8月号
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:浅原庸子
2003年2月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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