。いくら石鹸を兩手で揉んでみても泡が立たない。仕方なく眞水の方で石鹸を溶かす、それを身體になすり附けると又かゝり湯が要つて、甚だ水の濫費になる。
 船員はどういふ工合に風呂に入つてゐるのかと疑問を起した。
 五日目に一度眞水の風呂がたてられる。今日は眞水の風呂だといふ掲示が出ると、みんなはどつと聲を擧げて喜ぶ。
 その夜眞水の風呂に入つた。全く氣持がいゝ。清々として身體はべと附かない。矢張り風呂は眞水に限ると、みんな長い風呂になつてしまつて、後から入る番の仲間にせき立てられるといふ有樣であつた。
 南洋に着くまでに、眞水の風呂は二度入つたきりである。
 熱帶に入つてからみんな皮膚病に取付かれた。先づ足の指の股に水虫が出來た。こいつはどんどん殖えてしまつた。次に睾丸が痒くなつた。いんきんらしい。もう一つ全身に長い吹出ものが出來た。痒くてならない。是は汗疣だ。
 さういふ皮膚病に罹つて鹽湯に入ると箆棒に痛痒い。患部をよく水で洗つて鹽氣を取除くのであるが、何しろ糜爛してゐる患部であるからなかなか鹽氣が拔けない。その爲に段々症状が惡化するやうな氣がした。ある男の説では鹽湯は汗疣の藥だよと聽いたが、どうもこれは當にならないやうだ。
 それから五箇月程經つて私は又別の船で南洋から内地へ歸つて來た。この船は初めの船とは違つて大變設備がいゝ船であつた。船客も少く、而も私が一等船客の主席であつた。その爲に客室も立派であつたし、入浴も眞先にボーイさんが案内してくれた。
 浴室は頗る豪華なものであつた。何だか内地のホテルへ歸つて來たやうな氣がした。しかし矢張り大理石のバスの中は鹽湯だつた。石鹸を溶かしても一向溶けないあの鹽湯である。
 しかしこの時には私はもう大分鹽湯の扱ひに馴れてゐた。眞水を使つても、小さな桶に三杯使へば充分であつた。これは戰線に於て長い間巡洋艦などに乘つてをつて貴重な眞水の使ひ方を充分會得した爲であつた。
 船が愈※[#二の字点、1−2−22]内地へ近付き、もうあと一晩である港に入るといふ夜、眞水の風呂がたてられた。この時ばかりは文字通り蘇生の思ひがした。何しろ往きと違つて、歸りには戰地で得た皮膚病が猛烈にひどくなつてをつた。水虫はいゝ藥があつてうまく治してゐたが、當時第何回目かの汗疣に罹つてゐたし、もつと困つたことにはいんきんは非常にひどくなつてゐた。おまけに戰地でどこから得たか、田虫まで背負ひこんで、身體の方々に赤い輪が出來てゐた。さういふ状態で鹽湯につかるのは樂なことではなかつた。
 序でだから言ふが、この頑固な皮膚病も内地へ着いて四五日温泉に入つたりなぞしてゐると、けろけろつと治つてしまつた。
 軍艦にはバスがある。われわれは士官用のバスに入つた。毎日缺かさず入つたが、有難いことに眞水の風呂であつた。但しバスの中に入つてをる湯の分量は非常に少い。身體を横にして湯が僅に股の上に來るくらゐであつた。だから全身をつけるといふやうなことは出來ない。手で以て盛んにこの水を掻き廻して身體中にかけるより仕方がないのだ。又バスの中の湯は確に湯ではあるけれども、温度が低くて、中へ入るとひやりと冷い感じがした。
 バスの外にパイプが引いてあつて、これから使ひ水が出る。この使ひ水の方がよつぽど熱かつた。これは嚴重な制限があつて、小桶に三杯以上は使へない。この水が蒸溜水であるとは豫ねて知つてゐたから、餘計に水が尊くなる。
 汽船の中ではそれ程にも感じなかつたけれども、軍艦の中ではどんなことがあつてもその規約を守らなければならぬと思つたので、私は色々氣を使つて、制限内の水でうまく身體を洗ふことにした。氣を付けてやれば決して出來ないことではないのだ。しまひには二杯ぐらゐの水で、身體を石鹸まで附けて淨めることが出來るやうになつた。
 洗濯もこのバスの中でよくやつた。それにしてもあと一杯ぐらゐの水で充分洗濯が出來る。身體を洗ふ前に先づ洗濯すべきものを順々に重ねて置いて、それからその上に立上つて、身體を洗ふ爲に石鹸をなすり附ける。それから手拭でごしごし石鹸を揉んで身體を洗ふ。その石鹸水が身體を傳つて段々足から洗濯ものの上に落ちて滲み込んでいく。
 かうすると身體を洗ふ爲の石鹸は石鹸水となつて洗濯ものをたつぷりうるほす。身體を洗ひ終つたら愈々洗濯にかかるわけだが、洗濯ものはさつき言つたやうにすつかり石鹸で濡れてゐる。一番上にある洗濯ものを兩手でごしごし揉む。その時に石鹸の泡が立つて下に落ちるが、それは石鹸水がこれから洗濯する汚れものの上に落ちるのである。
 かうして次々に洗濯ものを揉んでいけば、最後まで石鹸水は、たつぷり汚れものに滲み亘るわけだから、石鹸も節約出來るし、水も節約出來る。
 かうして置いてあとは充分絞つて石鹸水を切り、最後に桶の中に入れて水で
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