「金博士は、机に向い、設計用紙を前にして、計算尺《けいさんじゃく》をひねりつつあり」とか「金博士、只今、バーミンガムの特殊鋼《とくしゅこう》工場へ、マンガン鋼《こう》五十トンの注文を発せり」などという工作関係のニュースは入っていなかったのである。ゴンゴラ総指揮官は、飛行機にのって特殊飛行をやってみたい衝動《しょうどう》に駆《か》られて、弱った。
 ついにゴンゴラ総指揮官の勘忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》が切れ、警衛隊に命令して、金博士をオムスク酒場から引き立て、官邸へ連れて来させたのであった。そのとき金博士は、へべれけに大酩酊のていたらくであった。
「うーい。こら、こんな面白くない酒場へ引張《ひっぱ》って来やがって。こーら、そこにいる大将。早くジンカクを持ちこい」
 ゴンゴラ大将は、仁王様《におうさま》がせんぶりの粉《こな》を嘗《な》めたような顔をして博士のぐにゃぐにゃした肩を鷲《わし》づかみにした。
「これ、金博士。いかに酒好きとはいえ、酒ばかり呑んで、吾輩との約束を無にするとは遺憾《いかん》である」
 総指揮官は、極力《きょくりょく》腹の虫を殺して、春の海のように穏《おだや》かに云った。
「おお、お主はゴンゴン独楽《こま》のゴン将軍じゃったな。今聞いてりゃ、聞いちゃいられねえことを余《よ》に向っていったな」
「吾輩は、三週間、いらいらして暮した。その間博士は酒ばかり飲んで暮した。例の仕事には、すこしも手がついていないではないか」
「あっはっはっはっ」と博士は笑って、「お主は、そのことを心配しているのか。余はイギリス人のように、やるといって置いてやらん人間とは違う。疑うなら、見せてやるものがある。さあ、余の右足をもって、力一杯引張れ。おい、早くやれ。酒を飲む時間が少くなる。なにしろイギリス製ウィスキーとも、間もなくお別れだからな。おい、引張れ」
 ゴンゴラ総指揮官は、博士に催促《さいそく》されて、床に膝をつき、博士の右足をつかんで、えいと引いた。すると、すぽんと音がして、博士の右脚が、太腿《ふともも》のあたりから抜けた※[#感嘆疑問符、1−8−78]


     4


 ……と見えたが、驚くことはない、実は金博士が右脚に履《は》いていた肉色の超長靴《ちょうながぐつ》が、すぽんと抜けて、ゴンゴラ将軍の手に残っただけのことであった。
「ひゃーっ」
 千軍万馬《せんぐんばんば》の将軍も、これには胆《きも》を潰《つぶ》し、博士の一本脚――ではない実は超長靴を、絨毯《じゅうたん》の上に放り出した。博士は、それを無造作《むぞうさ》に拾いあげ、その中に手を入れると、やがて一枚の青写真を引張りだした。
「ゴンゴラ将軍。これをお目にかけよう」
 将軍は目をぱちくり。膝の上に青写真を展《ひろ》げて、二度びっくり。
「これは、素晴らしい新兵器だ。一人乗りの豆潜水艇《まめせんすいてい》のようだが……」
「将軍よ。これは初めて貴官と会見した日、宿に帰ってすぐさま設計した渡洋潜波艇《とようせんはてい》だ」
「ああ実に素晴らしい。さすがは金博士だ。これを如何《いか》に使うのですかな」
「これはつまり、一種の潜水艇だが、深くは沈まない。海面から、この艇《ふね》の背中が漸《ようや》く没《ぼっ》する位、つまり数字でいえば、波面《はめん》から二三十センチ下に潜《くぐ》り、それ以上は潜らない一人乗りの潜波艇だ」
「ふむ、ふむ」
「これを作ったわけは、如何なる防潜網《ぼうせんもう》も海面下二メートル乃至《ないし》十数メートル下に張ってあるから、普通の潜水艦艇では、突破は困難だ。また普通の潜水艦艇では、機雷《きらい》にぶっつけるかもしれないし、警報装置に引懸《ひっかか》って所在が知れるし、どうもよくない。そこでこの渡洋潜波艇は、海面とすれすれの浅い水中を快速で安全に突破するもので、つまり水上と防潜網との隙間《すきま》を狙《ねら》うものである」
「ほう、素晴らしいですなあ」
「しかし、これは試作しただけで、余は取り捨てたよ」
「おや、勿体《もったい》ない。使わないのですか」
「駄目じゃ。やっぱり相手方に知れていけないのじゃ。つまり海面と防潜網との隙間を行くものではあるが、こいつを何千何万|隻《せき》とぶっ放すと、彼岸《ひがん》に達するまでに、彼我《ひが》の水上艦艇に突き当るから、直《ただ》ちに警報を発せられてしまう。従ってドイツ本土上陸以前に、殲滅《せんめつ》のおそれがある。これはやめたよ」
「惜しいですなあ。すると、これは取りやめて、以来《いらい》自暴酒《やけざけ》というわけですか」
「とんでもない。余はイギリス人とは違うよ。余は既に、ちゃんと自信たっぶりの新兵器を作った」
「それは、どういう……」
「莫迦《ばか》。現行兵器の機密が、他人に洩《も》らせるものか」
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