られていた。
 親方の五郎造が最後にやってきた。それでこの南千住の終点に集まる六人組の顔が全部そろったのであった。五郎造は、探偵帆村の化けこんでいるのとも知らず、正太と名乗るこの新入りの左官のことを、これは自分の女房の従弟《いとこ》だ、どうか仲よくしてやってくれと、他の仲間に引合わした。
 帆村探偵は、それから先どうなるのかと、ひそかに好奇の眼を光らせていると、やがて十分も経ったと思う頃、
「やあ、来た来た」
 と仲間の一人がいうので、その方を見ていると、一人のよぼよぼの婆さんが怒ったような顔をして一行に近づいてきた。
「――おう親方、吉治がいねえじゃねえか」
 と、婆さんは伝法《でんぽう》な口を利いた。
「うん、そのことだよ。実は――」
 といって、親方はまた吉治が不慮《ふりょ》の怪我《けが》で入院したことから、その代りに女房の従弟の正木正太を連れて来たが、この人物は保証するというようなことを、婆さんの耳許《みみもと》に噛《か》んでふくめるように説明しなければならなかった。
「おい、大丈夫かい。間違いはなかろうね」
 と婆さんは、眼をぎょろりと光らせて五郎造と帆村探偵とを睨《にら》んだ。
 帆村は、頭を掻《か》きながらぺこぺこ頭を下げた。いかにも職人らしい風を装《よそお》って。
 ようやく婆さんの信用をかちえて、一行は歩きだした。やがて着いたところは、ごみごみした横丁にあるバラック建ての婆さんの家だった。その中に入ってゆくと、土間伝いに裏に抜けるようになっている。そこにまた一つの潜《くぐ》り戸があって、それを婆さんが開けてくれた。
 そこを潜ると、黴《かび》くさい真暗な倉庫の中に出る。妙なところへ連れこまれたなあと思っているうちに眼が暗《やみ》になれてくる。するとこのだだっ広い倉庫の中に、牛乳を搬《はこ》ぶのに使うような一台の箱型トラックが置いてあるのに気がついた。
 すると何処からともなく人が出てきて、この運転台に乗った。別の人が、ぱっと五|燭《しょく》の電灯をつけた。その人は妙な形の頭巾《ずきん》をもっていて、それを五郎造の率いる一行の一人一人の頭の上からすぽりと被《かぶ》せた。
 帆村もとうとうこの頭巾を被せられてしまった。息のつまるような厚い布で出来た嚢《ふくろ》だ。頸《くび》のところでバンドを締め、御丁寧にがちゃんと錠がかかった。こうして置けば、いくら頭巾を脱ごうとしても脱げない道理だった。
 それが済むと、帆村たちは箱型トラックの中に手を執《と》って入れられた。扉がぴちんとしまって、中から鍵がかかる。誰か一人、傭主《やといぬし》の側の番人が乗りこんでゆくらしい。誰も物を云う者がない。
 そのうちに、倉庫の戸がぎいぎいと開く音が聞え、それとともにトラックは徐々《じょじょ》に動きだした。いよいよ秘密の場所への旅行が始まったわけであった。
 ごとんごとんと揺《ゆ》られながら、帆村はトラックの通りゆく道筋を、一生懸命に暗記しようとつとめた。
 右か左かへ曲ると、慣性の理によって、どっちかへ身体がぐぐっと圧《お》されるので、それとわかった。
 狭い道では、車はごとごととしきりに揺れたし、広い道へ出ると、すうすうと滑るように走った。
 しかし運転手は非常に気をつけているようで、しばらくゆくとスピードが殆んど一定となり、道を曲ることさえなくなった。もちろん十字路のストップは一度も喰《く》わなかった。なんだか郊外の方へ一本道にずんずんと進んでゆくように感ぜられたが、そのうちに数台の消防自動車のサイレンが喧《やかま》しく街を走っているのが聞えたので、ここはやはり東京市内だなと思った。
 それからまだ小一時間もトラックはごとごとと走った揚句《あげく》、ごろごろと下り坂を下りてゆくような気がしたと思ったら、やがて車はごとんと停った。
 これでいよいよ一時間半の長い旅行を終ったのである。ここは何処であるのか、帆村には一向見当がつかなかった。道順も始めのうちは覚えていたが、途中から皆目《かいもく》わからなくなった。
 一行はトラックの中から、そろそろと下に下りた。長い廊下を手を引き合って歩いてゆくと、やがて扉の明く音がして、一行はまたその中に導き入れられた。すると一緒についてきた番人が、頭巾の錠をがちゃんがちゃんと外《はず》してくれた。帆村は頭巾をかなぐり脱ぐと、深い息をしながら、あたりを見廻した。
(なるほど、ここだ。あの聴取書に書いてあった三百坪の天井の高い工場とはここのことをいうのだな)
 話にあったとおり窓が一つもない。電灯は煌々《こうこう》とついていて昼間のように明るいが、ここにいたのでは昼だか夜だか分らない。
 五郎造は引率《いんそつ》してきた五人の左官を呼びあつめると、今日の仕事の分担をそれぞれ云い渡した。そしてすぐさま仕事にとりかかった。
 帆村の仕事は、米《べい》さんという一人の左官について、一緒に床に特殊の漆喰《しっくい》を塗ることだった。
 それとなく辺りを窺《うかが》うと、この室内には一行六人の外に彼等を連れてきた逞《たくま》しい髭面《ひげづら》の番人が一人、そのほかにこの工場の人らしい職工ズボンを履《は》いた男が三人いて、こっちの仕事ぶりをじっと監視していた。
 五郎造はこの三人の男のことを、松監督さん、竹監督さん、梅監督さんと呼んでいたが、もちろんそれはこの中での符牒《ふちょう》であるにちがいなかった。
 さあ、ここが帆村のためには重大な戦場なのであった。このがらんとした亜鉛《トタン》屋根の工場とも倉庫とも見える建物内こそ、そこに秘められている大秘密をあばきつくすため、彼の智嚢《ちのう》を傾けつくさねばならぬ大戦場だった。しかしこの簡単な建物の中から、一体どんな手懸りが得られるというんだろう。半《なか》ばやりかかった漆喰の床《ゆか》と、チョコレート色の壁と、亜鉛《トタン》板を張った天井と、簡単な鉄の肋材《ろくざい》と、電灯と、たったそれだけの集った場所に過ぎない。果してこの中から、思うような重大秘密が嗅《か》ぎだせるものであろうか。


   臭いの研究


 米さんに従って、帆村探偵は黙々と本職らしい鏝《こて》を動かしつづけた。
 器用な彼は、平常《へいぜい》暇のあるごとに、色々な仕事を習い覚えていて、今度のような万一の場合には、すぐどんな職人にでも化けられるように訓練を積んであった。
 帆村がいま踏んでいる足の下は、相当しっかりしたコンクリートの床になっていた。漆喰をその上に、約二センチメートルの厚さで塗ってゆくのであった。
 この漆喰は、かねて話に聞いたとおり、普通の漆喰とは異ったものであった。石灰《せっかい》と赤土《あかつち》だけは普通のものを使うが、ふのり[#「ふのり」に傍点]は使わず、その代り何だか妙にどろどろしたものや、外に二、三種の化学薬品を混入するのであった。それらを交《ま》ぜあわすのがなかなか厄介であり、それからうまく交ざった後は、早いところ塗ってしまわないと、直ぐ固まってしまうのだった。つい凹凸《でこぼこ》が出来たり、罅《ひび》や筋が入る。すると松竹梅の三監督がやってきて、やり直しを命ずる。なかなか骨の折れる仕事だった。
 この特殊な漆喰は、一体どんな特長があるのであろうか。
 帆村の気づいたところは、第一に非常に早乾《はやがわ》きがすること、第二に、固まってしまえば鋼《はがね》のような強い弾力を帯びること、第三に耐熱性に富んでいるらしい非常に優秀な漆喰だった。すくなくとも市場には、こんなに勝《すぐ》れた漆喰が知られていない。
 そういう優秀な漆喰をここに敷《し》くという目的は、どういうところにあるのだろうか。
 普通の機械工場なら、こんな漆喰を塗るまでもなく、その下のコンクリート土台だけで十分であった。贅沢《ぜいたく》な場合でも、その上に僅かのアスファルトを流しこめばいいのだ。それにも拘《かかわ》らず、普通以上の強靭《きょうじん》さを漆喰で持たせようというには、何か訳がなければならぬ。この平々坦々《へいへいたんたん》たる床の上に、そも如何なる物品が載るのであろうか。帆村はせっせと鏝を動かしながらもそれを想って、何とはなく背中がぞくぞくと寒くなるのを覚えた。
 その日の所見を、その後、某大官の前で、帆村は次のように報告している。
「なんとかしてその漆喰の見本を、せめて定性分析の出来るくらいの少量でも持ってこようと思いましたが、監視が厳重なので控えました」
「爪の間に入れるとか、頭髪の中にこぼすとか、なんとかいい方法がありそうなものじゃないか」
「そんなことは向うで百も承知ですよ。いよいよ仕事が終ったというときには、僕たちは強制的に風呂の中に入れられてしまうのです。その風呂には、女がいましてね。僕たちの頭のてっぺんから足の爪まですっかり洗ってくれるのです。爪はきれいに截《き》った上、御丁寧にブラッシュをかけるという始末です。外へ出ると、服はすっかり着がえさせられます。履物《はきもの》やマットまで変るのです。恐らく厳重を極《きわ》めていますよ」
「ふーむ、莫迦《ばか》に細心にやっているんだね」
 大官は心から感嘆している様子だった。
「ねえ帆村君。これはあまり大きな声でいえないことだが、君がいま行っている仕事場は、ひょっとすると何かわが警備関係の防空室とかいう筋合のものではないのかね」
「ええ、それは――」
「もしそうだとすると、君は自国の機密建物を調べていることになって、大損《おおぞん》をするよ」
「そうです。貴官《あなた》の仰有《おっしゃ》るとおりの疑問を、僕も持ちました。僕も実は最初からそれを考えていたんです。しかし僕はあの建物のが、すくなくとも我が警備関係のものではない証拠をつきとめたのです」
「ほほう、それはよかった。で、その証拠というのは、一体どんなものだ」
 大官は眼鏡ごしに、ちらと黒眼を動かした。
「その証拠というのは、臭いなんです」
「えっ、臭いとは」
「臭いというものについて、一般の人はわりあい不注意ですよ。しかし臭いの研究というものは莫迦にならぬものです。日本人が寄れば、なんとなく沢庵《たくあん》くさいといわれます。これはつまり日本人の身体からは、食物の特殊性からくる独特の臭いが発散しているのです。日本人同士では、お互《たがい》に同じ沢庵臭をもっているのでそれと分りませんが、外国人にはそれがたいへんよく匂う」
「うむ、なるほど。で、君は例の仕事場でもって、何か特別の臭いを嗅ぎつけたのかね」
「そうです。僕はトラックを下りて、廊下をひったてられてゆくときに、早くもその独得の臭いに気がつきました。浴場で着物を着がえたりするときにも気がつきました。それから監督の傍によってもその臭いが感ぜられました。断じてあの場所は、日本人の経営している場所ではありません」
「それは大変だ。でもその監督は日本人じゃないのかい」
「中国人ですよ。浴場にいる女も、やはり中国人だと思います」
「じゃ、それは中国人の工場でもあるのかね」
「いや、臭いというやつは、もっともっと複雑です。あの場所の匂いというのがあります。それはどうも、あのチョコレート色の塗料のせいだと思いますが、これは些《いささ》か僕の自信のある研究なんですが、あの建物は某大国関係のものだと思いますよ」
「そうか、某大国か」と大官は大きく肯《うなず》いた。
「それは偉大な発見だが、しかし惜《お》しいことに、この場所が分らない」
「場所は分らぬことはないと思います。明日僕の後を誰かにつけさせ、箱自動車の後を追跡すればいいではありませんか」
「なるほど、そうやればいいわけだね」
 大官は莞爾《かんじ》と笑った。


   自記地震計


 その翌朝のことだった。
 帆村探偵はまた左官の道具と弁当箱とをさげて、南千住の終点へいった。
 私服刑事からなる別動隊は、帆村の行動を遠方からじっと見守っている。
 定刻の午前六時になった。
「変だなあ、誰も来ないじゃないか」
 定刻になっても、昨日の顔ぶれは誰一人として集って来なかった。
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