にとりかかった。
帆村の仕事は、米《べい》さんという一人の左官について、一緒に床に特殊の漆喰《しっくい》を塗ることだった。
それとなく辺りを窺《うかが》うと、この室内には一行六人の外に彼等を連れてきた逞《たくま》しい髭面《ひげづら》の番人が一人、そのほかにこの工場の人らしい職工ズボンを履《は》いた男が三人いて、こっちの仕事ぶりをじっと監視していた。
五郎造はこの三人の男のことを、松監督さん、竹監督さん、梅監督さんと呼んでいたが、もちろんそれはこの中での符牒《ふちょう》であるにちがいなかった。
さあ、ここが帆村のためには重大な戦場なのであった。このがらんとした亜鉛《トタン》屋根の工場とも倉庫とも見える建物内こそ、そこに秘められている大秘密をあばきつくすため、彼の智嚢《ちのう》を傾けつくさねばならぬ大戦場だった。しかしこの簡単な建物の中から、一体どんな手懸りが得られるというんだろう。半《なか》ばやりかかった漆喰の床《ゆか》と、チョコレート色の壁と、亜鉛《トタン》板を張った天井と、簡単な鉄の肋材《ろくざい》と、電灯と、たったそれだけの集った場所に過ぎない。果してこの中から、思うような重大秘密が嗅《か》ぎだせるものであろうか。
臭いの研究
米さんに従って、帆村探偵は黙々と本職らしい鏝《こて》を動かしつづけた。
器用な彼は、平常《へいぜい》暇のあるごとに、色々な仕事を習い覚えていて、今度のような万一の場合には、すぐどんな職人にでも化けられるように訓練を積んであった。
帆村がいま踏んでいる足の下は、相当しっかりしたコンクリートの床になっていた。漆喰をその上に、約二センチメートルの厚さで塗ってゆくのであった。
この漆喰は、かねて話に聞いたとおり、普通の漆喰とは異ったものであった。石灰《せっかい》と赤土《あかつち》だけは普通のものを使うが、ふのり[#「ふのり」に傍点]は使わず、その代り何だか妙にどろどろしたものや、外に二、三種の化学薬品を混入するのであった。それらを交《ま》ぜあわすのがなかなか厄介であり、それからうまく交ざった後は、早いところ塗ってしまわないと、直ぐ固まってしまうのだった。つい凹凸《でこぼこ》が出来たり、罅《ひび》や筋が入る。すると松竹梅の三監督がやってきて、やり直しを命ずる。なかなか骨の折れる仕事だった。
この特殊な漆喰は、一体どんな特長があるのであろうか。
帆村の気づいたところは、第一に非常に早乾《はやがわ》きがすること、第二に、固まってしまえば鋼《はがね》のような強い弾力を帯びること、第三に耐熱性に富んでいるらしい非常に優秀な漆喰だった。すくなくとも市場には、こんなに勝《すぐ》れた漆喰が知られていない。
そういう優秀な漆喰をここに敷《し》くという目的は、どういうところにあるのだろうか。
普通の機械工場なら、こんな漆喰を塗るまでもなく、その下のコンクリート土台だけで十分であった。贅沢《ぜいたく》な場合でも、その上に僅かのアスファルトを流しこめばいいのだ。それにも拘《かかわ》らず、普通以上の強靭《きょうじん》さを漆喰で持たせようというには、何か訳がなければならぬ。この平々坦々《へいへいたんたん》たる床の上に、そも如何なる物品が載るのであろうか。帆村はせっせと鏝を動かしながらもそれを想って、何とはなく背中がぞくぞくと寒くなるのを覚えた。
その日の所見を、その後、某大官の前で、帆村は次のように報告している。
「なんとかしてその漆喰の見本を、せめて定性分析の出来るくらいの少量でも持ってこようと思いましたが、監視が厳重なので控えました」
「爪の間に入れるとか、頭髪の中にこぼすとか、なんとかいい方法がありそうなものじゃないか」
「そんなことは向うで百も承知ですよ。いよいよ仕事が終ったというときには、僕たちは強制的に風呂の中に入れられてしまうのです。その風呂には、女がいましてね。僕たちの頭のてっぺんから足の爪まですっかり洗ってくれるのです。爪はきれいに截《き》った上、御丁寧にブラッシュをかけるという始末です。外へ出ると、服はすっかり着がえさせられます。履物《はきもの》やマットまで変るのです。恐らく厳重を極《きわ》めていますよ」
「ふーむ、莫迦《ばか》に細心にやっているんだね」
大官は心から感嘆している様子だった。
「ねえ帆村君。これはあまり大きな声でいえないことだが、君がいま行っている仕事場は、ひょっとすると何かわが警備関係の防空室とかいう筋合のものではないのかね」
「ええ、それは――」
「もしそうだとすると、君は自国の機密建物を調べていることになって、大損《おおぞん》をするよ」
「そうです。貴官《あなた》の仰有《おっしゃ》るとおりの疑問を、僕も持ちました。僕も実は最初からそれを考えていたんです
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