は。煙草のないのはいいが、一体これからのわれわれの食事はどうなるんでしょうか」
「うん、そのことには、よわっているんだ。しかし、一体われわれは、いつまで生きているかということの方が、先の問題だよ。まあ、どうせ、無い命なんだから、それまでは、朗かにやろうぜ」
「朗かにやれといっても、食うものがなくちゃ、朗かにやれませんぜ」
「ぜいたくいうな。とにかく、この戦車は、深い深い海底へおちこんでいるんだから、救援隊は来っこなしさ。ただ、こうして死をまつばかりだよ」
「いやだなあ。どうせ、乗るんだったら、戦車よりも、破れボートの方がよかった」
「なぜ?」
「だって、ボートにのってりゃ、仰向《あおむ》けば、天から降ってくる雪を、口の中にいれることができるし、たまにゃ、近くの流氷の上に白熊がのっているかもしれませんから、銃をぶっぱなして、白熊の肉にありつけるかもしれない」
「やめろ、そんなうまそうな話は! よけいに腹が減って、よだれが出るばかりだ」
と、パイ軍曹は、腹を立てた。
林檎《りんご》
傾いた戦車の中に、電灯だけは、ぜいたくにも煌々《こうこう》と照っている。
ピート一等兵は、大きな図体《ずうたい》を、小さく縮めながら、失心したようになって、床を見つめている。
(ああ、なんとかして、もう一度、パンというものをむしゃむしゃ食べてみたい。娑婆《しゃば》には、むかしビフテキなんてえ、うまいものがあったなあ)
そんなことを考えているうちに、ピート一等兵は、おやという表情で、鼻をひくひくさせた。
(おや、なんか食べ物の匂《にお》いがする!)
彼は、くすんくすんと、鼻をならした。
すると、とつぜん、まるで、お伽噺《とぎばなし》のようなことが起った。それは、傾いた戦車の鉄板の床の上を、林檎《りんご》のような形をしたものが、ころころと、ピート一等兵の足許《あしもと》へ、ころげてきたのであった。
彼は、太い指で、いくども、眼をこすった。
(あれえ、おれの眼は、どうかしているぞ。あまり食べ物のことを考えつづけたため、とうとうおれの頭はへんになって、有りもしない林檎が目の前に見えるのじゃないか)
眼を、ぱちぱちしてみたが、たしかに彼の足許には、林檎がおちている。
彼は、いくたびか手をのばそうと思いつつ、いやいや手をだすまいと、はやる心をおさえた。なぜなら、手を林檎の方へのばしたが最後、せっかくの林檎が、しゃぼん玉に手をつけたように、つと、消えてしまうのではなかろうか。幻《まぼろし》にしても、林檎の形が、見えている間はたのしい。幻が消えてしまえば、どんなに、つまらないだろう。それを考えると、ピート一等兵は、手をのばすこともならず、からだを化石のようにして、足許へ転がってきたその怪しい林檎の形を、見まもった。
だが、その林檎の色は、あまりにうつくしかった。まっ赤なつやつやした色が、食欲をそそりたてずには、おかなかった。そして、あの甘ずっぱい林檎の匂いまでが、つーんと彼の鼻をつきさしたように思ったのである。
ついに、ピート一等兵は、幻の林檎の誘惑に敗けてしまった。彼はぶるぶるふるえながら、手をのばした。そして、思いきって、林檎をつかんだ。
「おやッ」
大きなおどろきのこえが、彼の口をついてとびだした。
「あっ、ほんとの林檎だ!」
彼は、その場に、おどりあがった。林檎を頭の上に押しいただきながら……。そして、ひょっとしたら、自分は、とうとう気がへんになってしまったのかもしれないと、考えながら……。
「おい、どうした、ピート一等兵。しっかりしろ。気をしずめなくちゃ……」
パイ軍曹はだしぬけにピートが、さわぎだしたもので、これまた、心臓が破裂したようなおどろき方だった。
「軍曹どの。奇蹟《きせき》です。大奇蹟です」
「なんじゃ、奇蹟とは」
「あり得ないことが起ったのです。ほら、この林檎です。自分の足許へ、ころころと転がってきました。この林檎がですよ」
「あっ。林檎だ! こっちへ、よこせ」
「だめです。自分が見つけたんです」
「一寸《ちょっと》見せろ。この林檎は、どこにあったのか」
「軍曹どの、半分ずつ食べることにしましょう。自分にも、残してください」
「食べるのは後まわしだ。おいピート、この林檎は、喰《く》いかけだぞ。お前、早い所、やったな」
「いいえ、うそです。自分は、まだ一口も、やりません」
「それは、ほんとか。ほら見ろ。ここのところに歯型がついている。お前が、かじらなければ、誰が、ここのところを、かじったんだ」
「さあ? とにかく、まだ自分は、決してかじりません」
「じゃあ、いよいよこれはへんだぞ。お前がかじらず、おれがかじらないとすれば、この生々《なまなま》しい林檎のうえについている歯型は、一体、だれがつけたんだろう?」
前へ
次へ
全30ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング