「イヤ地形《ちけい》がユダヤ横丁へ引張りこむのだ。あとは簡単だ。あの夢遊病者のような歩き方が、団員の認識手段《にんしきしゅだん》なのだ。夢遊病者がやって来た。それ団員だといって、その男を本部へ引張りこむ。その上で尋《たず》ねてみると、どうも様子がおかしい。遂《つい》に正体が露見《ろけん》するが、結社の本部を知られてはもう生《い》かして置けぬということになる。やっつけられて気を失ったところを、黒塀《くろべい》の向うへ投げこみあの吊《つ》り籠《かご》に載せて、ギリギリとビール会社の高い窓へ送る。あとは器械に自然に捲《ま》きこまれて息の根も止《とま》れば、屍体も箱詰めになって、ビールと一緒に積み出される――」
「そんな歯車仕掛けのようにうまくゆくものか。行けば奇蹟《きせき》だ」
「奇蹟が三人の犠牲者を作るものか。ゆくかゆかないか。第四番目の犠牲者はもう出発を始めているのだ」
「なに?」
「考えても見給《みたま》え。例の妖酒から始まって、川っぷち、薬屋、ガールの家、ユダヤ横丁、黒塀《くろべい》、クレーンと吊《つ》り籠《かご》、ビール工場の高窓、箱詰め器械、それかち貨物駅と、これだけのものは次から次へとつながっているのだ。切迫《せっぱく》した尿意と慾情《よくじょう》とかゆみと夢遊《むゆう》と地形とユダヤ横丁の掟《おきて》と動くクレーンと動く箱詰め器械と、これだけのものが長いトンネルのように繋《つな》がっている。トンネルの入口はあの妖酒で、出口はビール箱だ。入口を入ったが最後、箱詰め屍体になるまで逃げることはできないのだ。なんと恐ろしいことではないか」
6
私にもだんだんと辻永の語る恐ろしさが判ってきた。ゾッとする戦慄《せんりつ》が背筋へ忍びよる――。
「この明るい東京の真ン中に、あのバーから始まってビール会社に続くこんな恐ろしい街道《かいどう》があるのだ。それは死に至る街道だ。地獄へゆく街道だ。これでも君は、おれ様の探偵眼を疑《うたが》うか」と辻永は虹《にじ》のような気焔《きえん》を吐《は》いた。
私はすっかり自信がなくなった。顔面《がんめん》は紙のように白くなっていたであろう。手はワナワナと震《ふる》えてきた。
「もう判った。君はミチ子のことで、この僕をあの恐ろしい地獄街道へ送ろうというのだネ。さっき僕に飲ませた酒は、あの妖しい酒なんだろう。そうに違いない」
私はもう坐《すわ》っても立っても居られなかった。それはミチ子をめぐる彼と私との暗闘《あんとう》が最後的場面へ抛《ほう》り出されたのだ。断然《だんぜん》たる敵意であった。砲弾のような悪意だった。
「はッはッはッ」と辻永は軽く笑った。「まア落着いたがいいだろう。あの酒は僕が飲ませたわけではなく、もともと君の前にミチ子が持ってきたのを、君がとりあげて飲み乾しただけのものじゃないか。僕がなにを知るものかネ。唯《ただ》、地獄街道の道案内を聞かせてやっただけじゃないか。最後の注意をするが、もうソロソロ催《もよお》してくるから、助かりたかったら……」
と、そこまで云ったとき、辻永は襲《おそ》われた様《よう》に声を嚥《の》んでガッと眼を剥《む》いた。そして椅子からピンと立ち上ったが、痛そうな顔をして腰をかがめて下腹をおさえ、急いで手洗室の方へ駈け出した。
「戸をあけてくれ。あけてくれ」
「貴方《あなた》、ちょっとお待ちなすって」とその日は月曜だというのに珍らしくいつものように出ていた主人が駭《おどろ》いて駈けつけた。「唯今お客さまがお使いになっていますから、しばらく、しばらくお待ち下さい。しばらくどうぞ」
「ぎゃーッ」主人に遮《さえぎ》られて、辻永は獣《けもの》のような声をあげた。これがあの沈着な辻永とはどうして思えよう。彼はクルリとふりむくと、今度は表戸《おもてど》を蹴破《けやぶ》るようにしてサッと外へ飛び出した。私には何もかも判った。実に辻永は例の妖酒《ようしゅ》を自分が飲んでしまったのだ。
「オイ待て、辻永」私も続いて戸外にとび出した。もう十二時に間もない街はヒッソリと静かだった。辻永の姿はと見ると、向うの軒灯《けんとう》の下に転《ころ》がるように駈けている黒い影がそうであろうと思われた。私は彼の名を呼びながら追い駈けたがとても追いつけなかった。
彼の話にある川っぷちを方々探したが見えない。桜ン坊も見当らない。探し疲れて橋の欄干《らんかん》に身を凭《もた》せかけた。もう時間はかなり経っているのにと心配していると、そこへ一台の自動車が風のように現われて、サッと通りすぎた。
「呀《あ》ッ! 辻永ッ」
私は車内に、たしかに辻永の姿を認めた。彼の傍《かたわら》には確かにあの桜ン坊というガールがピッタリと倚《よ》りそっていた。私は路の真中まで駈け出したが、もう間に合わなかった。どうやら私は違った側の川っぷちを探していたものらしい。
そこへ向うからパタパタと一人の女が近づいてきた。私の方へ向ってくるようだ。私はギョッとした。例のガールででもあって、そして矢張《やは》り私があの妖酒を飲まされていたのであったら、ああ其《そ》の恐るべき先は……。
「山野さん。あの人見付かって」
それはミチ子だった。私はすこし安心した。
「駄目だった」
「あの人、黄疸《おうだん》だったようネ」
「黄疸! 黄疸というと、なんでも彼《か》でも黄色に見える病気だネ」
「そうよ」
「それで判った。僕のグラスの無色の酒を黄色のコンコドスと見誤《みあやま》り、自分の黄色のコンコドスを、もっと黄色い別の酒と見誤《みあやま》ったのだ。だからコンコドスは最初から註文したとおり辻永の前にあったのだ。彼は話をうまく持っていって、僕にコンコドスを飲ませるつもりだったのに違いない」
「コンコドスの事をまだ云ってるの。――辻永さんはどこへ行ったのでしょう。大丈夫かしら」
「うん――」私は返事に詰まった。このままにして置けば箱詰めになる辻永だった。
「とにかく帰って一杯飲もうよ――」と、私はミチ子の手をとった。いま地獄街道を蝙蝠《こうもり》のような恰好でヒラリヒラリと飛んでゆく彼の姿を肴《さかな》に一杯飲みながら、さて助けてやろうかやるまいかと考えるのも悪い気持ではなかろうと謂《い》うものだ。
底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「モダン日本」
1933(昭和8)年9月号
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2004年5月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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