たじゃないか」と私はわかりきったことをわざと訊《たず》ねた。
「僕ならこう考える。青年たちはこの横丁をとおりかかって誤って団員と間違えられた。そのとき結社の内部を青年たちに見られたものだから、これを死刑にしたのだ。方法は簡単だ。散々《さんざん》撲《なぐ》って気絶させ、それからあの塀を越えてあの石炭の吊り籠に載せる。それだけでよいのだ。あとはあの殺人器械がドンドン片づけてくれる。ここのところを見給え。奴等の乗り越えてきたあとがあるぜ」
そういって辻永は、まだ塀の新しい裂《さ》け傷《きず》や、跳《は》ねかかった泥跡《どろあと》を指した。
「青年たちはどうしてこの横丁へなぞ入ってきたのだろう」私は不審に思った。
「そいつはこれから探すのだ」
辻永の探偵眼に圧倒された気味で、私はそのうしろについてユダヤ横丁を通りぬけた。まだ空は薄明るかったが、いい気持はしなかった。
辻永は左右へ眼を配りながら、黙々《もくもく》と歩いてゆく。
そのうちに、あたりはいよいよ暗くなってきた。どこからかピストルの弾丸《たま》が風をきって飛んできそうな気がしてならぬ。わが友はその中を恐れもせず、三度《みたび》ユダヤ横丁を徘徊《はいかい》した。
「オヤッ――」
私は駭《おどろ》きを思わず声に出した。辻永が急に活発に歩きだしたのだ。どうやら何か又新しい手懸《てがか》りを掴《つか》んだものらしい。
その辻永が再びゆっくりした歩調に返ったのは、ユダヤ横丁をとおり抜けた先に沢山《たくさん》に押並んだ小さい二階家《にかいや》の前通りだった。歩いてゆくと、とある家の薄暗い軒下に一人の女が立っていた。まるまると肥った色の白そうな女だった。年の頃は十八か九であろう。透きとおるような薄物《うすもの》のワンピースで。――向うではこっちを急に見つけた様子をして、ものなれたウィンクを送った。
「上ろう。いいか」
辻永は私の耳許《みみもと》に早口で囁《ささや》いた。しかし私は辻永のような実践的度胸《じっせんてきどきょう》に欠けていた。
「やめちゃいけないか」
「じゃ斯《こ》うしろ」辻永はやや声を震《ふる》わせて云った。
「バー・カナリヤで待っていろ」
バー・カナリヤは銀座裏にある小さい酒場だった。私たちが友情をもつようになる前から二人は別々に客だったのだ。随《したが》って銀座方面へ出るたびに、二人は手に手をとってカナリヤの小さい扉《ドア》を押したものだ。
ふりかえってみると、桜《さくら》ン坊《ぼう》のような例の女は、白い腕をしなやかに辻永の腰に廻して艶然《えんぜん》と笑っていた。そして二人の姿は吸いこまれるように格子《こうし》の中に消えてしまった。
4
バー・カナリヤで一時間半も待ったろうか。随分永いこと待たされたものだが、私にとってはそう退屈《たいくつ》ではなかった。それはミチ子を傍《そば》にひきよせて飽《あ》くことを知らぬ楽しい物語をくりひろげていたせいであった。出来るなら辻永が永遠にこのバー・カナリヤに現われないことを冀《こいねが》った。辻永が探偵に夢中になっている間にこの女を誘《さそ》い出してどこかへ隠れてやろうかという謀叛気《むほんぎ》も出た。それほど私は、辻永のキビキビした探偵ぶりにどういうものか気が滅入《めい》ってくるのであった。
そこへ辻永がシェパァードのように勢《いきお》いよく飛びこんで来た。
「大勝利。大勝利」
彼は躍《おど》り出したいのを強《し》いて怺《こら》えているらしく見えた。
「おいミチ子。今夜は奢《おご》ってやるぞ。さア祝杯だ。山野《やまの》には何かうまいカクテルを作ってやれ。僕は珍酒《ちんしゅ》コンコドスを一つ盛り合わせてコンコドス・カクテルとゆくかな」
「コンコドス? およしなさい。アレ飲むとよくないことよ。それに辻永さん、今夜は顔色がたいへん悪いわよ。どうかして?」
なるほど辻永の顔色のわるいことは前から気がついていた。変に黄色っぽいのである。
「ナーニ、今日は疲れたのと、喜びと一緒に来たせいなんだよ。――早くもって来い」
「じゃ辻永さんはコンコドス。山野さんはクィーン・ノブ・ナイルがよかない」ミチ子が向うへ行ってしまうと、辻永は待ちかねたように、懐中《かいちゅう》から手帖を出した。それには小さい文字で、いくつもの項目《こうもく》わけにして書き並べてあった。
「君。ちょっとこのところを読んで見給え」辻永は鉛筆のお尻で、そこに書き並べられた標題《ひょうだい》を指した。
そこには次のようなことが書いてあった。
――○ガールの家(夜中に客が居なくなってしまったという不思議な事件が三度あったという)
「これは?」と私は訊《たず》ねた。
「さっきの女のうちに、箱詰《はこづめ》になった青年が三人とも泊ったことが判った。三人とも夜中にいなくなったので覚えているそうだ。遺留品《いりゅうひん》も出て来た」
「ほほう」
「ところがその青年たちは、申し合わせたように近所の薬屋で、かゆみ止《ど》めの薬を買って身体に塗ったそうだ」
「三人が三人ともかい」
「そうなのだ。三人が三人ともだ。それがこの薬屋でかゆみ止めの薬を買って、身体に塗るしさ。女の話では、なんでもその前は全身かゆがって死ぬように藻《も》がいていたそうだ」
「どうしてそんなにかゆがる客をわざわざ取ったのだ」
「イヤそれは、○かゆい[#「かゆい」に傍点](家につくちょっと前から始まる)――なんで、始めからかゆがっていた訳じゃないのだ」
「じゃどこかで拾ってきた客なのだネ」
「これだ。○ストリート・ガール(銀座で引っぱられる)――つまり銀座から、あの場所まで引張ってゆくうちに、かゆくなったのだ」
「どうして、かゆくなったのだ」
「それは後から話すよ」
ミチ子がグラスを載《の》せてやってきた。
「オイ煙草を買って来て呉れ。それからシャンパンの盃《さかずき》をあげるから、冷《ひや》して用意しといて呉れ」
辻永はミチ子に向ってたてつづけに用を云いつけた。
「まア景気がいいのネ」
とミチ子はグラスを二人にすすめると向うへいった。
「さア一杯やろうよ」
「ウン」
「どーだ、これを飲んでみないか。君の口にはよく合うと思うがな」
と彼は自分のところへ置かれた盃をこっちへ薦《すす》めようとして、又別の声をあげた。
「オヤオヤ。ミチ子の先生、今夜はどうかしているぞ。コンコドスを僕のところへ置かないで君の前へちゃんと置いているじゃないか。莫迦《ばか》に手廻しがいいなア」
そういって辻永は二つのグラスを横から眺《なが》めた。私の眼にうつったものは、辻永のグラスの黄色い液体、私のグラスの透明な液体であった。
「コンコドスって無色透明《むしょくとうめい》なのかい」
私は変な酒を飲まされてはかなわんと思って念のために訊《たず》ねた。
「ちがうよちがうよ。コンコドスは黄色いレモン水のようなやつさ。それ、そのとおり……」と彼は私の前の無色透明の酒を指した。
「その方のじゃないか」と私は彼のグラスに入っている黄色い酒を指した。
「イヤ、こんなに褐色《かっしょく》がかってはいないよ」と彼は打ち消して、
「さア乾杯だ」
彼はキュッとグラスから黄色い液体を飲み乾《ほ》した。私は狐に鼻をつままれているような気がしたが、アルコールときては目がないので、目の前の無色のカクテルを(彼は黄色だというのを)ググッと一と息に飲んだ。
「それでいい。それでいい。大いに愉快だ」
5
辻永は大変興奮してきたようだった。この分では今に酔払って前後《ぜんご》がわからなくなるのであろう。私は今のうちに、先刻《せんこく》の話を聞いて置こうと考えた。
「あの話ネ、かゆくなるというのは、どういうわけなのだ」
「かゆくなるわけかい。ウン、話をしてやろう。――西洋に不思議な酒作《さけづく》りがある。それは禁止の酒を作っては、高価ですき[#「すき」に傍点]者《しゃ》に売りつけるのだ。法網《ほうもう》をくぐるために、酒瓶《さかびん》の如きも普通のウイスキーの壜に入れ、ただレッテルの上に、玄人《くろうと》でなければ判らない目印《めじるし》を入れてある。こうした妖酒《ようしゅ》のあることは君にも判るだろう」
「……」私は黙って肯《うなず》いた。それは例の媚薬《びやく》などを入れた密造酒のことを指すのであろう。
「これは大変に高価なもので、到底《とうてい》日本などには入って来ないわけのものだが、だが一本だけ間違ってこの銀座に来ているのだ。或るバーの棚《たな》の或る一隅《いちぐう》にあるんだ。ところがそのバーの主人も、その酒の本当の効目《ききめ》というものを知らないのだから可笑《おか》しな話じゃないか」
「それでは若《も》しや……」
「まア聞けよ」と辻永は私を遮《さえぎ》った。「その酒は滅多《めった》に客に売らないのだ。だが特別のお客に売ることがあるし、また間違って売る場合もある。それはバーの主人がときどき休む月曜日の夜に、不馴《ふな》れなマダムが時々こいつを客に飲ませるのだ。勿論《もちろん》マダムはそんな妖酒とは知らず、安ウイスキーだと思って使ってしまうのだ。――ところでこの酒を飲まされたが最後大変なことになる」
「ナニ大変なこと!」
「そうだ。大変も大変だ、自分の身体が箱詰《はこづ》めになってしまうんだ。無論《むろん》息の根はない。再び陽の光は仰《あお》げなくなるのだ」
「オイ辻永。その洋酒の名を早く云ってしまえよ」と私は卓子《テーブル》から立ち上った。
「まア鎮《しず》まれ。鎮まれというに」彼はいよいよ赤とも黄とも区別のつかぬ顔色になって、眼を輝かせた。「おれ様の探偵眼《たんていがん》の鋭さについて君は駭《おどろ》かないのか。いいかネ。その妖酒を飲んで例のバーを出るとフラフラと歩き出すころ一時に効目《ききめ》が現れてくるのだ。まず第一に尿意《にょうい》を催《もよお》す。第二に怪しい興奮にどうにもしきれなくなる。ところでそのバーを出てから尿意を催すと、どこかで始末をつけねばならぬが、適当なところがない。どこかで――と考えると、頭に浮かんでくるのは、その直《す》ぐ先の川っぷちだ。その川っぷちへ行って用を足す。ところがその辺に桜《さくら》ン坊《ぼう》という例のストリート・ガールが網を張っているのだ。これはカフェ崩《くず》れの青年たちを目当てのガールなのだが、たまたまバー・カナリヤから出て来た彼《か》の妖酒に酔いしれたお客さんだとて差閊《さしつか》えない。客の方では差閊えないどころかもう半分気が変になっている。だから桜ン坊の捕虜《ほりょ》になって、円タクを拾うと、例の女の家の方面へ飛ぶのだ。そのうちに、又々妖しの酒の反応が現れて、こんどは全身がかゆくなる。かゆくて苦しみ出すころ、自動車は彼女の家の近くに来ている。隠れ家をくらますために家の近所で降りて、あとはお歩《ひろ》いだ。しかし何分にもかゆくて藻掻《もが》きだす。そこであの近所にある一軒の薬屋を叩き起して、かゆみ止めの薬を売って貰う。――どうだ、この先はどこへ続いていると思う」
「いや、それはあまりに独断《どくだん》すぎる筋道《すじみち》だと思う」私は最初のうちは彼の鋭い探偵眼に酔わされていたような気持だったが、話を訊《き》いているうちに、なんだかあまりにうまく組立てられているところが気になった。
「独想ではない、厳然《げんぜん》たる事実なのだ、いいか」と辻永は圧迫《あっぱく》するような口調で云った。「そのかゆみ止めの薬が又大変な薬で、かゆみを止めはするけれど、例の妖酒に対して副作用を生じるのだ。その結果夜中になって、その男を桜《さくら》ン坊《ぼう》の寝床から脱け出させる。現《うつつ》とも幻《まぼろし》ともなく彼は服を着て、家の外にとび出すのだ。一寸《ちょっと》夢遊病者《むゆうびょうしゃ》のようになる」
「まさか――」
「事実なんだから仕方がない。その擬似《ぎじ》夢遊病者はフラフラとさまよい出《い》でて、必ず例のユダヤ横丁に迷いこむ」
「それは偶然だろう」
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