み乾《ほ》した。私は狐に鼻をつままれているような気がしたが、アルコールときては目がないので、目の前の無色のカクテルを(彼は黄色だというのを)ググッと一と息に飲んだ。
「それでいい。それでいい。大いに愉快だ」


     5


 辻永は大変興奮してきたようだった。この分では今に酔払って前後《ぜんご》がわからなくなるのであろう。私は今のうちに、先刻《せんこく》の話を聞いて置こうと考えた。
「あの話ネ、かゆくなるというのは、どういうわけなのだ」
「かゆくなるわけかい。ウン、話をしてやろう。――西洋に不思議な酒作《さけづく》りがある。それは禁止の酒を作っては、高価ですき[#「すき」に傍点]者《しゃ》に売りつけるのだ。法網《ほうもう》をくぐるために、酒瓶《さかびん》の如きも普通のウイスキーの壜に入れ、ただレッテルの上に、玄人《くろうと》でなければ判らない目印《めじるし》を入れてある。こうした妖酒《ようしゅ》のあることは君にも判るだろう」
「……」私は黙って肯《うなず》いた。それは例の媚薬《びやく》などを入れた密造酒のことを指すのであろう。
「これは大変に高価なもので、到底《とうてい》日本などには入って来ないわけのものだが、だが一本だけ間違ってこの銀座に来ているのだ。或るバーの棚《たな》の或る一隅《いちぐう》にあるんだ。ところがそのバーの主人も、その酒の本当の効目《ききめ》というものを知らないのだから可笑《おか》しな話じゃないか」
「それでは若《も》しや……」
「まア聞けよ」と辻永は私を遮《さえぎ》った。「その酒は滅多《めった》に客に売らないのだ。だが特別のお客に売ることがあるし、また間違って売る場合もある。それはバーの主人がときどき休む月曜日の夜に、不馴《ふな》れなマダムが時々こいつを客に飲ませるのだ。勿論《もちろん》マダムはそんな妖酒とは知らず、安ウイスキーだと思って使ってしまうのだ。――ところでこの酒を飲まされたが最後大変なことになる」
「ナニ大変なこと!」
「そうだ。大変も大変だ、自分の身体が箱詰《はこづ》めになってしまうんだ。無論《むろん》息の根はない。再び陽の光は仰《あお》げなくなるのだ」
「オイ辻永。その洋酒の名を早く云ってしまえよ」と私は卓子《テーブル》から立ち上った。
「まア鎮《しず》まれ。鎮まれというに」彼はいよいよ赤とも黄とも区別のつかぬ顔色になって、眼を輝かせた。「おれ様の探偵眼《たんていがん》の鋭さについて君は駭《おどろ》かないのか。いいかネ。その妖酒を飲んで例のバーを出るとフラフラと歩き出すころ一時に効目《ききめ》が現れてくるのだ。まず第一に尿意《にょうい》を催《もよお》す。第二に怪しい興奮にどうにもしきれなくなる。ところでそのバーを出てから尿意を催すと、どこかで始末をつけねばならぬが、適当なところがない。どこかで――と考えると、頭に浮かんでくるのは、その直《す》ぐ先の川っぷちだ。その川っぷちへ行って用を足す。ところがその辺に桜《さくら》ン坊《ぼう》という例のストリート・ガールが網を張っているのだ。これはカフェ崩《くず》れの青年たちを目当てのガールなのだが、たまたまバー・カナリヤから出て来た彼《か》の妖酒に酔いしれたお客さんだとて差閊《さしつか》えない。客の方では差閊えないどころかもう半分気が変になっている。だから桜ン坊の捕虜《ほりょ》になって、円タクを拾うと、例の女の家の方面へ飛ぶのだ。そのうちに、又々妖しの酒の反応が現れて、こんどは全身がかゆくなる。かゆくて苦しみ出すころ、自動車は彼女の家の近くに来ている。隠れ家をくらますために家の近所で降りて、あとはお歩《ひろ》いだ。しかし何分にもかゆくて藻掻《もが》きだす。そこであの近所にある一軒の薬屋を叩き起して、かゆみ止めの薬を売って貰う。――どうだ、この先はどこへ続いていると思う」
「いや、それはあまりに独断《どくだん》すぎる筋道《すじみち》だと思う」私は最初のうちは彼の鋭い探偵眼に酔わされていたような気持だったが、話を訊《き》いているうちに、なんだかあまりにうまく組立てられているところが気になった。
「独想ではない、厳然《げんぜん》たる事実なのだ、いいか」と辻永は圧迫《あっぱく》するような口調で云った。「そのかゆみ止めの薬が又大変な薬で、かゆみを止めはするけれど、例の妖酒に対して副作用を生じるのだ。その結果夜中になって、その男を桜《さくら》ン坊《ぼう》の寝床から脱け出させる。現《うつつ》とも幻《まぼろし》ともなく彼は服を着て、家の外にとび出すのだ。一寸《ちょっと》夢遊病者《むゆうびょうしゃ》のようになる」
「まさか――」
「事実なんだから仕方がない。その擬似《ぎじ》夢遊病者はフラフラとさまよい出《い》でて、必ず例のユダヤ横丁に迷いこむ」
「それは偶然だろう」
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