、早く社へ出ることになっていた。それで僕は、妹にかまわず家を出たんだ。そうだ、あれは七時だったよ」
「なるほど」
そういって帆村はオーバーの襟をたてた。濠ばたを、春寒むの風が吹く。
「社へ出て、ひっかかりの仕事を大体片づけてほっと一息ついたところへ、木村という同じ部の記者が入って来て、ちょっとと蔭へ僕を呼ぶんだ。僕は何の気なしに彼の方へ寄って行くと、『おい土居、君の妹さんが警視庁へ引かれている事を知っているか』というだしぬけの質問だ。僕はそれを聞くと、全身が急にがたがた慄えだした。『知らなかったが、一体どうしたんだ。教えてくれ』と木村にすがりつくと、木村の曰く、『うちの三上――本庁詰の記者だ――その三上が知らせて寄越したんだ、なんでも殺人容疑者となっている。そして妹さんは今朝、被害者邸に居て、そこから引かれたこと、妹さんが今日早朝、被害者邸を訪問したことがぬきさしならぬ嫌疑となったらしい』という話。僕は気が変になりそうになったが、それを堪えて木村にいろいろ質問を浴びせかけたが、それ以上の深いことを彼は知らず、また三上も知らないことが分った。ただ木村のいうのには、この際一刻も早く妹さんに有利な証拠がためをしておくのがいい。それには帆村氏あたりを煩わして、早くそして正確にやってもらっておくがいいだろうという忠告なんで、それでその時まですっかり忘れていた君の存在を思出したような始末さ。頼む。このとおり」
と、土居はポケットから手を出して、片手だけではあったが、帆村を拝んだ。
「で、君はその後、妹さんに会ったか」
「いや、会っていない」
「なぜ三津子さんは今朝旗田邸を訪ねたんだろうか。そのわけを知っているかね」
「いや、それは知らない。僕は三津子が旗田と何かの交渉を持っていることについてすら、今日までさっぱり気がつかなかったのだからね。なんという呑気すぎる兄だろうか」
と、土居は目を固く閉じて、首を振った。
そのとき帆村は、俄かに歩調をゆるめた。それはもうすぐ目の前に、旗田邸の塀が見えたからであった。
「それで、被害者旗田鶴彌氏は、どんな方法によって三津子さんに殺害されたといっているのかね」
帆村は重要なる事項について訊ねた。
「そんなことは知らない。木村はもちろん三上も知らないんだ。おそらく当局者は蠣《かき》のように黙っているんだろう。僕も早くそれを知りたい。君の力でもって、ぜひ当局者から聞いてくれたまえ」
検証
帆村は、検察委員に選任せられていたから、警戒の警官にことわって、邸内に入ることを許された。
中へ入ってみると、帆村の馴染な顔がいくつもあった。その顔触によって、ここに詰めている主任が大寺警部だと知った。その大寺警部は、今しがたここに到着した長谷戸検事一行を案内して、事件を説明しているところだそうで、今すぐそれに参加せられるが便宜であろうとすすめた。帆村はそれに従った。
検事一行は、被害者の居間に集っていた。この居間は、十四五坪ほどの洋間であった。立派な鼠色の絨毯が敷きつめてあり、中央の小|卓子《テーブル》のところには、更にその上に六畳敷きほどの、赤地に黒の模様のある小絨毯が重ねてあった。その小卓子と向きあった麻のカバーのついた安楽椅子の中に、当家の主人旗田鶴彌氏が、白い麻の上下の背広をきちんと着て、腰は深く椅子の中に埋め、上半身は前のめりになって額を小卓子の端へつけ、蝋細工の人形のように動かなくなっていた、卓上には、洋酒用の盃や、開いた缶詰や、古風な燭台や、灰皿に開かれたシガレット・ケースに燐寸《マッチ》などが乱雑に載っていた。だが、それらの品物は、一つも転がっていはしなかった。
「……そんなわけでして、どうもはっきりしないところもあるんですが」と大寺警部の有名な“訴える子守娘”のような異様な鋭い声がして「ともかくも、ここの戸口の扉には内側から鍵がさしこんだまま錠がかかっているのに対し、反対側の窓が半分開いて居りますうえに、今ごらんになりましたとおり、被害者の頸の後に弾丸が入っている。それならば、犯人は被害者の後方から発砲し、それからあの高窓にとびあがって逃げた――と考えてよろしいのではないかと思います。私の説明はこのくらいにしておきまして、後はどうぞ捜査指揮をおねがいいたします」
そういって大寺警部は一礼した。
検事一行は、静粛な聴問の姿勢を解いた。
「すると君は、容疑者一号の婦人が、その被害者を射殺した後、あの高窓へとびあがり、扉を開いて外へ逃げたというんだね」
長谷戸検事の声だった。
「はあ。私はそう思いますが……」
「で、その容疑者一号は、ピストルを持っていたかね」
「いや、持って居りません。追及しましたが頑として答えません」
「ピストルで射殺したことは認めたかね」
「ピストルなんか
前へ
次へ
全40ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング